ARDILA
無力な雪
深々と静かに漂う白い結晶が幾重にも重なって舞い降りる夜。
暦の上では冬と言えど本格的な根雪を向かえるかどうか…微妙な期間。昼間は、こうも降り積もるなど思いも寄らなかった。出掛け先から帰る途中、日が暮れ掛けた頃から雪の嵩は徐々に増して来たのだ。
サクサクと軽快に音を鳴らし帰路を急ぐ途中も容赦無く肩には粉雪が着き纏う。凍てつく寒さを堪えずとも駕籠に乗ってしまえば早いかもしれない。だが生憎駕籠に乗るまでも無いような距離。走って行っても支障は無く、ふわふわと質量が雪にはある。雨に当たるよりは払えば幾分かマシだろうと見切りをつけた。
「副長!」
前方の声に視界を遮る雪の奥に眼を凝らすと、そこには確かに斎藤が立っていた
「遅いので迎えに…雪も降ってきましたので」
少し大股で歩み寄った斎藤は閉じた傘を持ちながら自分は雪にまみれている。走っていたのか。僅かに上がる息を表すように断続的に白濁りの煙を吐き。頬は寒さのせいでもありながら朱が差していた
「助かった。と言いてぇところだが…傘を持ってンだから、差して来いよ馬鹿野郎!」
「走るのに邪魔で、近くまで来ているかと思っていましたから…」
思いの外強めの口調は効き目があったらしい。まさか一番に怒鳴られるとも思っていなかったのか。顔を俯き加減に反らされてしまった。土方は小さく溜め息を吐き出し斎藤の持つ一本の傘を手に取る。言い訳も説教も後回しにして開いて直ぐに斎藤の方へ翳す
「持て」
「…はい」
差し出した傘を受け、二人は一つの番傘の下へ納まる。漸く雪を遮断したその場所で両手の空いた土方は斎藤の肩を胸板に引き寄せた。例え僅かな距離だろうが斎藤の白雪色をする肌は着物の上からでもまるで同じ雪のように冷えている。しかし抱き込んだ場所から少しの熱を分け与えられたのか徐々に暖かさを取り戻していった。
「…雪みてぇだ」
喉を鳴らして抱き込んだ斎藤の肩口で漏らす。歪んだ口元さえ斎藤の視界に入らないが、その口調からして労れているのを感じた。季節特有で厚着されるその下に隠れた撫でらかで純白な肌の白さを知っている。その冷えた体温に似合う程に白さは際立つだろう
「あぁ、でもお前ェが溶けちまうのも困るな」
相変わらず笑いを含ませながら冗談めく言葉に今度は斎藤が濁った溜め息を小さく漏らした。
「ご冗談はさておき、早く帰らなければ冷えてしまわれます」
「もう手遅れだろ」
「これ以上、寒さに当たる道理が無いと言う事です。帰って暖まって下さい」
「チッ…」
「舌打ちなさいましたか?」
軽く吊り上げられ、ムッとした表情と見合う。斎藤は勿論、土方を気遣って言っている事だ。それでも、まるで二人だけを包み隠そうと、頭上から降り注ぐ雪に道端の人も消え。深々と辺りを染める白銀の音も無い外で、屯所に帰ってしまうのは勿体無いとまで思ってしまう
「せっかくの出迎えがテメェなのによ。連れねぇな…」
「これ程、天気の悪い時にこの場に留まる必要が無いと言うだけで―…」
「分かったっての」
盛大に不機嫌さを表して見せ。大きく吐いた吐息が斎藤の項にまで当たるほど再び肩口の近くに埋まる。斎藤には到底、この雪の夜だからこその理由を理解出来はしない。差し詰め凍てつく寒さに当たりたい物好き。などと、そんな認識をされているかもしれない。
僅かほんの長くでも、斎藤とこの場に留まりたいなど浅はかな願いはあるが。必至に己の為に説得をする斎藤こそが、このままでは一緒に冷えてしまうのに変わりはないのだ
「…帰ぇるぞ」
今更ながら、斎藤に文句を言う事も無い。斎藤へ土方の思いの丈が全て通じる事には寧ろ諦めさえも抱いている。名残惜しくも腕を解き、斎藤に傘を持たせたまま歩みを進めた。
斎藤がついた安堵の息が水蒸気になり漸く歩き出した土方の後ろに付き添った風で揺らめいた。上手く土方が納まるよう傘を傾け。少しばかり背中の方に雪が降りて来ようとも斎藤にとっては構う事ではないのだ。しかし、そんな雪が落ちる背中よりも、土方の胸板に押し当たっていた胸元や、埋められていた首元の方が、土方の熱を失ったせいで余計に寒さを感じてならない。己より土方の方が体温が高いのを身に染みて思い知らせてくる。帰ると急かしたのは己の方だが、この犇々と感じる寒さは堪らない。それは、無くした温度が余りにも大きいモノで。だからこそ、その余韻や温度差が激しいからだ
「…副長は、梅だけじゃ無く、雪もお好きなんですね」
「まぁ…雪が降って溶けねぇと、次の梅が拝めないしな」
土方らしいと言えば土方らしい言い分だろう。歩みを止めず振り向きもしない背を見詰めた。斎藤にとって雪は日常生活の中でも煩わしく嫌いなモノの分類に含まれる。この場に留まろうとした土方の気が知れない。況してや、こうも触れられた部分から広がる虚無感に寒さが染み込んでくるのだ。それは、けして口に出しはしないが。斎藤にしてみれば嫌いな理由の最大的な要素かもしれない
「…俺が好きと言えば、妬くか?」
「……雪にですか?」
眼を僅かに丸めて見据えた土方は口端を吊り上げ端正な微笑を浮かべている。首を傾げている最中徐にまた土方の指先が斎藤の方へ伸び、着物の裾へ付着していた小さな雪礫を軽くパンッと払った
「俺は、こうしてお前にくっ付く雪にも嫉妬しそうだ」
払われた雪が、無力のまま砕けて散った。
帰る事を優先され、纏う雪をそのままに歩く。そんな何気無い些細な帰路で、次から次へと覆うように降り注ぐ結晶の欠片。土方の掌で姿を消した粒のあと、その場から感じる熱と、直ぐ後に押し寄せてくる虚しい温度差。たが、その温度差のお陰で土方に触れられる度、雪を溶かす程の暖かい熱を知らされるのだ。
「…離れてしまうと、寒さだけが余計に残りますから。私も、雪は嫌いです―…」
掠める程度に頬まで這ってきた指先に、雀の涙ほど僅かに自ら擦り寄ってみせた
「っ、」
息を飲んでしまった土方に斎藤は気付けず。その直後、肩を引き寄せられたまま引き摺るようにして土方が歩き出し傘がグラつき体制が崩れる。傾いた番傘の上に軽く積もっていた雪が地面の雪にドサッと埋もれた
「ぁの、危ッ―…」
「バカ、お前ぇ…ンなこと言われちゃ。離せねぇだろうが」
喉を鳴らして眉を崩し笑い始めた。前屈みになるほど引き込まれた力は強く、やはり寒空の空気さえも和ませる程に暖かい
「そんなに笑わないで下さい…」
恥を忍んで、土方が聞くから必至に絞り出したのだ。それでもこれ以上ない程に密着させられた身体に満足してしまいそうだ
「やっぱ、雪も悪くねぇや」
「………」
斎藤はただ唇を僅かに尖らせ。そして、土方の肩に掛かる雪を見てペシッと軽く追い払う。しかし、また払っても払っても止まる事無く降る白い結晶は、ヒラヒラと舞いながら二人の合間に割り込んでくる。そんな結晶程のモノしか入れない僅かな距離にある土方は、まだ笑っていて。そこへ粒の大きな雪が一つ舞い降り、土方の方へ靡く。耳元を掠めようとしたそれを、斎藤は口先で受け止め。その瞬間、僅かに唇が土方にまで触れた
「良かったですね、雪も副長が好きみたいですよ」
まるで口吻のように口元に触れた雪は跡形も無く消え失せ眼に見えぬ程の水滴と儚くも化した。雪で塗れた其処だけが、自棄に赤々しく見える。それへ引き込まれるよう結晶すらも立ち入る事が出来ない距離まで重ね合わせれば、その部分だけが唯一、熱を帯びる。
「お前ぇが可愛いことすっから、雪も良いンだろ?俺以外の奴に触らせてンじゃねぇ」
「お互い様です」
結晶に奪われてしまったキスを取り戻しながら、熱を分け与え共用する。柔らかく啄んで静かに離すと、穏やかに斎藤が笑った
紅葉狩り
秋も深まってきた京都。木々の色は豪華絢爛に染まり、春の華々さとまた違った美しさが人々の目を楽しませるのだろう。
「寒いですね斎藤さん。早く帰って火鉢で暖まってみかん食べたい」
「寒いのとみかんは関係ないだろ」
「秋にみかんは重要ですよ」
「重要なのか?」
巡察を終え隊士達の後を沖田と連れ立って歩く斎藤が小首を傾げた
「あっ!紅葉ですよ」
沖田が目を輝かせながら小走りで一本の木の前まで駆け寄る。人の話を聞いているのか分からないが直ぐに話を変えるのはいつものことだ
「綺麗ですねぇ」
木を見上げ微笑む沖田の隣に斎藤も足を止めた。同じく木を見上げると立派な紅葉の木の葉は赤々しく染まり。時々その葉を風で散らす様が美しい
「紅葉も秋には重要ですね」
「確かに綺麗だな…副長が喜びそうだ」
小声で呟いた斎藤に沖田が軽く目を見開いた後、クスと吹き出した
「土方さんならここで一句捻るかもしれないや。今度、紅葉でも見に誘ってあげたらどうです?」
「忙しいだろ」
「まぁそうだけど、一緒に出掛けたりしたく無いんですか?打ってつけの口実だと思うのにな」
「別に。仕方無いことだ」
それで納得してキッパリと言い切る真顔の斎藤に少し呆れながらもう一度紅葉に目線を戻した
「勿体ないですね土方さんも。こんなに綺麗なのに」
「屯所にここまで立派な紅葉は無いからな…」
と言った後、斎藤は一歩前に出て木に手を伸ばす
「どうしました?」
「届かない」
「はい?」
枝に手を伸ばす斎藤を見守る沖田に振り返りもしない。沖田が見守り続けている中、斎藤は後退り木と間合いを置き。腰に差す刀に手を掛け目にも留まらぬ速度で抜いた。
ザンッ――…
しかし木は微動だにしない。そして、刀が鞘に収まると同時に一本の枝がドサッと斎藤の目の前に落ちた
「さすが斎藤さん。木を揺らさないで斬るなんて、お見事ですね~っ」
「アンタも簡単に出来るだろ」
沖田が満面の笑みで手を叩くが素っ気なく返し。落ちてきた太く長く枝と言うかその樹を抱え歩き出した。
「まさか、ソレ持って帰るんですか?」
「そうだ」
「でも土方さんにあげるなら落ち葉で十分だと思いますよ」
「落ちているモノなど差し上げられるか…。枝の方が葉も沢山付いてるから副長も喜ぶ」
「……そうですか」
樹を斬られてしまった木に同情し。土方が紅葉の葉の数など気にする訳が無いとも思うが、沖田は敢えて口を慎み。土方のするであろう如何様な反応を僅かに期待し胸を踊らせた。
「お、お前ら…」
帰って来た沖田と斎藤が報告の為に副長室に訪れた途端、土方は言葉を失った。
「何も異常はありませんでしたよぉ」
「それはそうとな…」
異常なら現在進行形で土方の部屋で起こっている。その土方の顔色に笑みを浮かべる沖田と、隣に無表情の斎藤に頭を抱えた
「この紅葉は斎藤さんです。良かったですね土方さん」
「…暫く席を外せ。総司」
「はぁーい」
クスクスと口を歪めながら沖田は静かに襖を閉じた
「これは何だ?」
「見ての通り紅葉です」
「それは知ってる」
机に肘を付いて頭を抱える土方の前には、庭に埋めれば立派な紅葉の木に成りそうな樹が丸々一本横たわる。
「そうじゃねぇよ、何故その紅葉を俺の部屋に持ってくるんだ?」
「屯所の近くにあった紅葉が見事だったので…」
呆れる土方を余所に斎藤は俯いてしまった
「……副長にも見てもらいたくて…」
「斬ってここまでコレを担いで来たのか」
無言でコクと頷き俯いてはいるが斎藤の頬が微かに紅いのは見て取れる。しかし見せたいなら落ち葉でも良い。この立派な枝を持って来られても困ったものだ
「斎藤、ここに座れ」
「はい……」
言われた通りポンッと叩かれた土方の横に腰を降ろす。直ぐに顎を掴まれ、唇に軽く触れるだけの口付けに斎藤は目を見開いた。
「こいつは紅葉の礼だ。だが、俺の部屋に置いてても枯れちまうな。そこの庭に埋めれば根を張るだろ。そうすりゃこっから見れる」
幸いにも斎藤が斬った切り口は見事で苗に成るには十分だ。口端を吊り上げる妖艶な笑みに見惚れ硬直する斎藤の顎を放し。身体を抱き寄せると耳朶を甘く噛みながら囁く
「今度からは無暗に罪も無い草木を斬るなよ。紅葉が見せたきゃ言え。都合つけて一緒に行ってやる」
「……心得ました」
身体を強張らせ。まるで紅葉のように頬を紅く染める斎藤は、肩口に顔を埋めたまま呟いた。
「斎藤さんって本当、面白い人ですね。正しく文字通りの紅葉狩りですか」
翌日、土方から言われた通り庭に木を埋める斎藤を縁側で蜜柑を頬張りながら見守る沖田が口を歪めながら言う
「馬鹿だろ。あんなもん持って来やがって少しは考えろってンだ」
横で柱に凭れ煙管を吹かしながら、同じく斎藤を眺める土方が溜め息と共に呟く
「とか言って、嬉しそうな顔してますよ土方さん。鬼副長の威厳はどうしました?」
「ッ…うるせぇ!」
「アララ、赤鬼だ」
笑いこける沖田を足蹴に追い払うと楽しそうに縁側を駆けて行った。無表情の斎藤だが、土方に関しては無意識に必死になるのに戸惑い呆れつつ、それが愛しく思えて仕様がない。
「終わりました」
「上出来じゃねぇか」
土方は斎藤を見て顔が緩むのを、色鮮やかに染まる紅葉を見て誤魔化した。
夏バテと藍色の浪人
この日、斎藤は腹の具合が悪かった。
「見廻り、代わりましょうか?(誰かさんが煩いので)」
同室の沖田が普段より数段は血色の悪い斎藤の顔を覗き見て言う。それでも、よたよたと斎藤は無言のまま身支度を整えた。
「ねー、斎藤さん。聞いてます?」
「…静かにしててくれ」
「夏バテか食中りですかね?法眼先生のところ行った方が…」
「構うな、必要無い…」
「斎藤さんってば」
部屋を後にしようと襖に手を掛けた斎藤の肩に沖田の掌が乗っかった瞬間バタリとその体が畳へ崩れた。
「アレ?…ウソ、触っただけなのに」
「ッ~~~~~~…!」
斎藤は沖田の足元で踞り。腰と腹を抱えて無言のまま撃沈したのだった。
「斎藤が倒れたァ!?」
ガチャン!と土方が文机を叩き上げ立った拍子に湯呑みがゴロンと床へ転がった。沖田はお茶が染みになる前にと手拭いを取り出す。土方はそれを目下に沖田を捲し立てた
「ってか、今日アイツ見廻りだったのか!?非番の筈じゃ─…」
「もしかして、土方さん忘れてました?先日、永倉さんと夜勤交代したじゃないですか」
「あ~ぁ…そうだったか…?」
すっかり頭から抜けていたらしい土方は髪を掻き乱して座り直した。特に約束した訳では無いが逢瀬は非番の前日と決めている両者。無論、仕事の為だろうが今ではそれが事の“合図”の役割になり。土方は昨夜、斎藤を部屋へ招いた。
…─そんな無茶させたか?アイツも何で、何も言わねぇンだよ…と、身勝手ながら不貞腐れつつ土方は再び筆を握る。
「それで、斎藤は医者に行ったのか。見廻りの代行は誰だ?」
「居ませんよ代行なんて」
背後で聞いた沖田の台詞に、土方の息が一瞬停止した
「さんざん止めたけど、あの斎藤さんが聞くわけ無いでしょ?ちょっと前に出払いましたよ、真っ青な顔色して…」
「テメェ!それを早く言えってっっ!!」
土方は握っていた筆を勢いの余りボキィっとへし折り。刀をひっ掴むと部屋の襖をバキィっと蹴り破った。
「ちょっと土方さん!」
「あのバカ野郎を連れ戻しに行くンだよっ!」
ドダダダダダダダ…と韋駄天の如く廊下を駆け抜け、土方は瞬く間に見えなくなる。
「副長命令なら伝令でも良いのに…。平気で物壊すんだから」
沖田は唇を尖らせ誰かに目撃される前に口々に物を大切にしろだの経費削減だの常日頃から言っている土方が蹴破って行った障子を建て直した 。
調子が悪いのは確実に己の所為でもあり、頑固者で通る斎藤が素直に制止を聞くだろうか不安だが。土方は逸早く斎藤の様子を見る為に見廻りルートを追った
「此処から二手に別れる。何かあれば呼び笛を鳴らせ」
「はっ」
手短に返事をして伍長と数人の隊士が十字路を向かって行ったのを丁度に土方は目撃し。斎藤が進んだ方へ土方も歩を進める
「隊長、大丈夫ですか?明らかに御顔の色が優れませんが…」
「苛立つから話し掛けないでくれ」
「は、はいッ!!」
あの野郎…意識朦朧としてンじゃねぇか…。もう斎藤は半ば半ギレで遠巻きからでも殺気立っているのが伺える程だ。ここで攘夷浪士と出会しでもすれば目にも止まらぬ間に斬り捨てる事は間違い無い。もはや目の前にいま飛び出すだけで斬り掛かって来そうなくらいの勢いである。
斎藤は一歩踏み出す度にズキンと響く腰と蠢く腹を誤魔化すのに自棄だ。昨夜の記憶は珍しく陽が昇った事すらうやむやでただ腰が有り得無い程に痛かった。それはそれは平時の稽古など比では無い。朝食のギリギリまで動く事も出来ず昨夜のままロクに始末も儘ならないでいると身体に負荷が掛かるのは当然だった。不機嫌極まり無く見廻りを続け、何軒かの商家や旅籠に聴取のため立ち寄るのを並々ならぬ気迫だけでこなす。
一方その最中の土方は今にも飛び出して行きたい衝動に駈られながら遠巻きにその後を追いつつ、斎藤の身体は無論第一に大切であるが。この場で出て行くと斎藤の事だから例え土方の言う事であっても素直に訊くだろうか…。況してや八つ当たりに喧嘩などもってのほかだと考え。その間に見廻りはどんどん進んでしまっていた。このままでは、いつ本当に斎藤が倒れるのが早いか、文句言われるのを覚悟で己が出て行くのが早いか分からない状況までなり。ここまで来たなら寧ろ、見廻りをさっさと終わらせ斎藤の気が済んだところで医者に担ぎ込もうかと考えていた。
「主は居るか、新選組の御用改めである」
「へぇ、ただいま─…」
見廻りも終盤近く。斎藤率いる三番隊が手入れに入った旅籠屋の斜め向かえの茶屋で土方は店の内から様子を見る事にした。斎藤の体調以外は、何の問題も無く見廻りは順調…だったのだ。
「新選組だぁ━━━━!!散れっ、散れぇ━━!!」
激しい物音と騒音が往来に響き渡り店内から浪士が数人転がり出て来たのを土方も目撃。店先や道にはど真ん中で始まった捕物を遠巻きで見守る人の輪が出来ていた。新選組三番隊斎藤と言えば隊内で一、二を争う手練れ中の手練れ。人斬り斎藤と誉れ高いのだが、今回ばかりはそうは問屋が降ろさない。既に外へ飛び出した浪士を囲むよう隊士が行く手を阻み。いつもなら此処で速攻で斎藤が白刃を曝せば片が着く。それでも斎藤は身体が気だるい為に相手が真っ向から来るのを待つ事にしたのだ。動かない斎藤を確認した土方はもう動く事も儘ならないのかと度肝を冷やしたのは言う迄も無い。そしてもう気付けば片足が一歩前へ出ていたのだが、寸前でピタッと歯止めが掛かった。
此処でノコノコ横から飛び出して行くと、敵は土方の名に上手く吊られてくれるだろうが。斎藤の場合はどうか…。何をしているのか等と突っ込まれるのも面倒で更には素直に助太刀を快く認めるとも遺憾し難い。
「ちくしょう、こうなりゃ仕方無ぇ─…」
土方は苦し紛れに一つの案を編み出した
「俺と見抜かれなきゃ問題は無い」
そう意を決して呟きを漏らすと、土方は店から一枚の手拭いを貰い受け。それを装備した。
「大丈夫か?!斎藤!!」
「……………誰だ?」
斎藤が眼を点にさせるのも無理は無い。浪士との合間に颯爽と現れたのは、淡い藍色の布で頭から顔を覆い着流し一枚で抜き身を手にした一人の男。その布の隙間から伺える目元は酷く切れ長で、鋭く眼光を放ち浪士を睨んだ。しかし、見据えられた浪士達の縋るような瞳が潤む。
「もしや、アンタが彼の有名な鞍●天狗かっ?!」
「違ぇーよっ!!」
土方なりに考え手拭いで顔を隠す事にした結果まるで鞍●天狗な有り様になってしまっているが。無論、攘夷志士の正義の見方では無い。
「テメェら、大人しく縄に着け」
「チッ、新手なのか!!」
「待て、俺は知らん」
男の登場に慌てふためく浪士に斎藤が冷静に返す。
世のため人のため日夜治安維持に励む新選組だが、助ける事はあっても助られる覚えは無い。況してやこの現状は斎藤の調子が悪いと言うだけで新選組隊士が負傷したわけでもなければ不利と言う状況でも何でも無い。
「くそっ、こんなに新手が早いとは…」
「新手では無い。本物の新選組が知らんと言ってるだろう。誰だ貴様、なぜ俺の名前を知っている」
「気にすンな。助太刀に来た」
「必要無い。誰だと聞いているんだ、名を名乗れ」
「名乗る程のモンじゃねぇ」
「ならば貴様も斬る」
「た、隊長…。とにかく先ずは奴等を捕縛しなければ─…」
何が何だか分からないが顔色の悪い隊士が斎藤へ指示を仰いだ瞬間、そこに数本の白線が煌めき。瞬きもせぬ間に数人の浪士の体勢が崩れ。その先には藍色手拭いを巻く男が立っていた。
キン…と最後に鯉口が閉まる金属音が自棄に往来に響く。ドサドサドサと浪士達が白目を向いて倒れた様に土方は布の奥で微笑を満足気に浮かべる。
「まぁこんなモンか」
アッハッハッハッと鞍●天狗的なヒーロー気取り気味に笑みが漏れる土方。斎藤が手を出す暇も無く上手く事が解決し此で漸く斎藤が医者に行けるのだ。と土方は安堵したつもりだったが、その矢先、チャキと音を鳴らして目前に刀の切っ先が突き出てきた。
「公務執行妨害だ。一緒に屯所まで同行しろ」
明らかに敵視丸出しな斎藤
「お前、助けてやったンだろうがっ!いいから、さっさと屯所に帰還しろ!!」
「貴様も来いと言っている。素性も知らぬ者に助けて貰う謂れは無い」
「素直に助けられとけよ!」
「抵抗するつもりか」
眉を寄せて刀を突き付けくる斎藤を仕事熱心だと褒めてやる余裕は無い。辺りを見ればいつの間にか他の隊士達も己を取り囲んでいる
「まず刀を納めろ─…」
「斎藤?!」
突然グラッと目の前で斎藤が体勢を崩し地面に倒れ込む寸前のところで土方が何とか肩を掴んだ。顔色を伺えば額に汗を滲ませ。支える身体の力はもはや抜けきっていた。斎藤がそのまま気を失ってしまった事を良い事に土方はそれを担ぎ上げ、松本良順の休息所である鴨川畔の旅籠屋へ運び入れた。しっかり隊士達には正体を明かして来たが、度肝を抜かれて唖然としているところ。
公言したら切腹だと約束させたのは言う迄も無い。
「避暑中に休んで居るところ申し訳ありません。たまたま近場だったので」
「それはまぁいい…だが、お前ぇさんよォ─…野暮な事ァは言わねぇけどな」
目線を畔へ流し苦笑を浮かべつつ、クツクツ喉を鳴らす松本に少し身構えてしまう
「若気の至りも、ここまでくりゃ致命的だな。関節痛は時期に治まるとして、テメェの種が原因で腹痛に夏バテの上塗りたァ。そりゃ倒れるゼ」
生憎、松本も医者として言うのだから男同士だろとオブラートに包み隠す事はしない。診察した松本には一目で斎藤の身の“状態”が分かって当然である。土方は返す二の句を失った。
「アレも新選組の立派な公方様の手代。それをお前ぇさんが駄目にするなんざ、もっての他だィ。せめて労ってやれよ」
「…夏バテまでは、俺は知らん」
それだけ言うのに土方は精一杯で暫く松本のキツい小言が坦々と続けられた。
横から吹き込む顔を撫でるそよ風に斎藤は眼を開けた。
「気が付いたか…?」
布団の傍らに胡座で構え顔を覗き見てくるのは土方。その手に団扇を握っていて斎藤の額の上には濡れた藍色の手拭いがある。身体は寝かされているお陰か腰の痛みも無く。今朝が嘘かのように楽だった。
「…此処は…、どうして副長が…?」
「無理に起きるな」
状態を動かそうとしたのを団扇でペシッと頭を押さえ。取り敢えず、見廻りの最中に倒れた事と松本のところで一室を借りていると説明した。
それはそれは心配で心配で気が済むまで見廻りをさせておいて。その後をこっそりノコノコ尾行し、顔を隠してまで代わりに攘夷志士を捕まえた。とは言わないが、土方は斎藤に言いたい事が山程ある。確かにあるのだが、職務を全うした事を咎める訳にもいかず。
土方は選んで選び抜いた言葉を発した。
「お前、何で昨日の晩に何も言わなかったンだよ。てっきり俺ァ非番かと…」
「昨日の晩…?」
何の話しかさっぱりだと斎藤は眼を丸くさせる
「何か言わないとならない事が、ありましたか?」
「仕事の話しじゃねぇぞ」
直ぐに斎藤は済ませていない報告や頼まれ事でもあったのかと頭を過ったが、それをしっかり先見性で見透かして土方が言うから。
ますます何の事かと頭を捻る。少しのあいだ沈黙が続き。一向に思い当たらなさそうな斎藤に、土方は痺れを切らして静かに溜め息を吐き出した。
「ぶっ倒れるくらいなら、昨日呼んだ時に断るなり何なり、何か一言でも言えってンだ」
「…この痛みと倒れた事が副長の所為だとでも…?」
「………あぁ」
でなければ、それはそれは心配で心配で気が済むまで見廻りをさせて、その後をこっそりノコノコ尾行し………挙げ句の果てに松本の説教を一刻ばかり坦々と黙って聞いちゃいない。
「副長の所為なんですか?」
再度、斎藤は確認する。まるで意思の疎通が出来ていないようで、幾分か先程より整った顔色を一切変えずに真顔で土方を見詰める。
「何故ですか?此は私の落ち度で、貴方には関わりありません」
サラッと関わり無い等と台詞を吐かれ土方はショックの余り、思わず団扇を扇ぐ手が止まってしまった
「暑さに当てられ倒れるなど、鍛練が至らなかっただけです。…腰は、貴方よりは若いですよ」
「テメェ…」
真顔のままで続け様に言われると土方の額に血管が浮き出る
「へいへい、そーかよ。流石は優秀な斎藤だ、此れからも鍛練に励んでろ」
「はい」
喜んでンじゃねぇーよ!!畜生っ!!と、内心だけで土方は叫びを張り上げた。二人で居る時ですら滅多に御目に掛かる事の無い希少なはにかむ斎藤を見れば面と向かって直接言える訳が無い。
土方は皮肉で言ったつもりでも、斎藤には立派な励ましだったようだ。先程は思いやったつもりが刀を突き付けられ。皮肉を言ったつもりが嬉しがられては身も蓋も無い。
「ったく、来て損したじゃねぇか」
フンと一つ鼻を鳴らし、バタリと斎藤が寝る布団の横に土方も仰向けで寝そべった。
外は漸く日が僅かに傾いているが蒸し暑さは相変わらずだ。頭上から二人目掛けて団扇をゆっくり動かす手を土方は休めない。夏バテと言う斎藤は濡れた額の藍色の手拭いを乗せているから尚涼しく熱も引いてきているだろう。
「忘れちまった俺も悪ィかと思ったが、結果的に関わり無ぇとまで言われて。そのクセ、テメェは無茶して倒れやがるし…」
心配で心配で…とか言うのは全て言わないと決めたから、残りの愚痴は全部呑み込んだ。
「何がどうあれ、非番じゃ無くとも貴方の呼び付けを断る理由は、私にはありませんから…」
今のボソボソとした愚痴を聞いていたのかと隣を見ると、いつの間にか斎藤の目元は藍色の手拭いで隠れ。寝てしまっているのかも判断出来ない。
「斎藤…?」
「……はい…」
辛うじて起きているらしいが相槌も辛うじて出来ている程度だ。それでも土方に呼ばれて返事を返さなくてはと何とか声を出す様に、思わず土方は吹き出してしまった。
「斎藤、涼しいか?」
「はい…」
「少し寝たら帰れるだろ」
「はい…」
それだけ残すと直ぐに穏やかな寝息が聞こえ始める。暫くの間、昨夜の詫びでもと団扇で風を送り続けていた土方だった。
「副長っ、この手拭い…何処で?」
「ぁあ?」
土方も知らぬ間にウトウト船を漕ぎ始めた頃斎藤は思い立ったよう額から手拭いを鷲掴み飛び起きた。
「今日の昼間に、コレと同じ物を被った藍色の浪人が我々の邪魔立てを─…」
やはり土方は助けたつもりでも斎藤には不振者の横槍にしかなっていない。だが幸いにも斎藤に全く正体を感付かれてはいないらしい
「そんな手拭い…珍しくも何とも無いだろ」
「私の事を知っていたようなので。妨げになるようでしたら、次に見付け次第必ず捕縛致します」
「待て。…今後ソイツには、関わらなくていい」
助太刀したのに命まで狙われる羽目になっている藍色の浪人を、土方は思わず客観的に哀れに思った