top of page

雨の日の午後

榎本は映画が好きだ。
主に洋画…その中でもイタリアからフランス映画などを好む。だが苦手なのはアクション映画。血眼になって人と殴り合うような度肝を冷やすアクションがアクション映画のウリでも、榎本にすれば直視出来ない。だから必然的にジャンルはミステリー等に絞られた。
無論、理解出来るから字幕すらも必要無い。映画館で見たいのもやまやまだが…他人のポップコーンを食べる音、コソコソと何処からともなく聞こえる小声話し、息遣い、全てが煩わしい。
鑑賞中に飲み物以外は必要無いし。話し掛けたり、話し掛けられるなど、もっての他だ。一度でも気が散って集中力が途切れてしまうと、再びその世界観に入り込むのは難しいから。だから、他人と映画を見るなんて無いと思っていた

しかし今は梅雨の真っ只中。平日で尚且つ余程の話題映画が無ければ人混みなど有りもしない。そして、特に雨が強い日をわざわざ狙って榎本と土方は映画館に居た。外は目論んだ通りの大降りな雨。映画館の中ですら少し蒸しているくらいだった

「何を見ンだ?」

「有名な学者が書いた、イタリアが舞台のミステリー小説を映画化したやつ。ちゃんと字幕付き」

「ふーん、あっそ。俺はタバコ吸って来るから、先になか入ってろ」

土方は軽く告げて喫煙所へ吸い溜めに行く。榎本の趣味を知っているし。平然とフランス語でも英語でも話す榎本が字幕を見ると言うのは無論、己に合わせての為だろうから特に土方は文句を言わない。
2本ほど一気に吸えば時間も丁度いい頃合いだ。缶コーヒ1つを手に土方が館内を見渡せば思った通りやはり人は疎ら。況してや今の洋画は吹替え版も有るし、DVDなどの普及で大抵がそっちへ流れる。そして、こんな梅雨の日に映画館へ来て字幕映画を見るのは、余程の拘りある映画好きだ。
その映画好きに含まれる身内の見覚えある後頭部が椅子に座っている。席は中間の真ん中。土方が歩み寄った所で、思わず足が止まった

「アンタ…何だソレ」

榎本の椅子の脇にあるドリンクホルダーにカップが置かれているものの、明らかに表面が白い泡で覆われている

「ビール。一杯だけ良いじゃん」

まぁ車を運転する訳でも無く。その程度のアルコールなら榎本にすれば水も同然である。それ以上、土方は何も言わず榎本の隣に座った。直ぐに暗転して予告や広告が流れ始める。チラッとだけ横目で榎本を見れば既にスクリーンへ集中している様子だ。

本編が始まり、暫く二人は映画に集中していた。土方は字幕を目で追い。榎本は、何処にミステリーを解く鍵があるのかとスクリーンを食い入るよう見詰める。小説で内容を把握していようが、映像が織り成す緊迫感やまた別の味があるから1シーンも見過ごせない。少し手に汗握って見る榎本。その隣の土方は、フと感じた視線でついスクリーンから目を反らしてしまった

土方らが座る中間より斜め前方のそこには、数人グループの女性客。この映画の主役俳優がお目当てか何かか、特に話しに集中している訳も無さそうで。尚且つ何故かチラチラと先程から目線が送られているのを感じる。当然、映画館の席は上の方が高いのだから、後ろに居る此方からは丸見えなのだ。勿論、隣の榎本は全く気付いていないらしく前を見据えていた。だから土方は、ただ黙ってその視線を拒絶するべく少し脚を伸ばし深く椅子に凭れると、隣に座る榎本の薄い撫で肩へ頭をこてんと預けた。すると突然の軽い重みを感じた榎本はその肩を一度ビクッと振るわせ、丸くさせた瞳で隣を見る

「なに…」

「ん、なんでもね…黙って見てろよ」

「眠いの…?」

内緒話しのようにコソコソ囁き会う。その最中に榎本も漸く視線に気付き、前方の女性グループが此方を伺っているのを目撃。
土方の容姿は目を惹き付け安いのは百も承知だから、的確に言えば様子を見られているのは土方に間違いないと瞬時に分かった。そして榎本は何気無くバッチリ目が合ってしまい、直ぐに反らされて何かを向こうも数人で話しているのが伺える。
姿が見えるだけで声が聞こえる距離でも無いし、スクリーンでは綺麗なBGMとイタリア語が流れているが、彼女らが何を話しているのかは大体の察しは付く

「人に見られてるよ…」

「見せてンだろ」

「そっか。じゃあ協力する」

僅かに肩を震わせて笑みを漏らした榎本は、眉間に皺を寄せ不機嫌になってしまった土方を宥めるかのように自分から僅かに身を土方の方へ寄せた。榎本も大概、独占欲は強い。土方に自ら所有権は誰にあるのか委ねられた気分で、だから榎本もちゃんと答えて示す事にした。
今度は土方の方が少し目を丸くさせ肩口の位置から榎本を見上げる。榎本の映画好きを知っているから肩を借りられればそれで良いし。拒絶されようがホントは会話も慎みたかったくらいだ。
その人目を気にする榎本に断わられる訳でも無く。自ら擦り寄られたのだから嬉しい限りだ。しかし、そんな榎本の協力も虚しく、土方には目敏くもまだ目を付けられているのが分かる。
一睨みでもすれば逃げるだろうかと思ったが、こうも室内が暗いと効果はあまり期待出来ない。もう既に土方は映画を見る処か、イライラが増すばかりだった。



映画も中盤戦に差し掛かろうとしている。原本を学者が書いたと言うその内容は、イタリアの綺麗な街中を舞台に学者を演じる見目の良い役者達が、その明晰な頭脳で推力を駆使し。不可解な事件を解決へ導いてゆく物語だ。その中で、事件に巻き込まれた端麗な一人の美女と知り合い絆を深める主人公。彼女を糸口に二人は協力しながら謎の解明を図る奮闘が主に描かれている。
やがて、事件解決に向けて謎を明かすにつれ発見された敵の組織。味方に犠牲者を出しながら緻密な知恵比べを繰り返しつつ学者の主人公は敵の一網打尽に踏み切ると、緊迫した展開になってきた。
そんな最中、土方の不快指数も上がる一方で。それを構わず、隣の榎本は前方を見据えているだけだ。いつの間にか無意識の間に榎本と繋がっている掌は、ときどき玩ぶかのように離れたり絡めたりを繰り返し。緊迫したシーンには榎本に強く握られるから、もう映画の内容が然程気にならなくなってしまった土方もクライマックス近くの山場なのだろうと納得していた。
苛つきが増せば煙草が欲しくなるのは必至。しかし、上映中の館内は無論、禁煙で、あと残り僅かの時間を堪え凌ごうとしていた、
そんな矢先…

「…寒い─…」

「…は?」

未だに肩を借りる土方の少し斜め上から聞こえて来たた呟きに驚きながら顔を上げた。雨のお陰で蒸すくらいの気温と空気に、これ以上無い程に寄せ合っていて寒いとは何事か。

「エアコンかも…」

榎本は軽く身震いして身を縮め、冷えた風を送って来る方にある空調を指す。梅雨の湿気を払う為に温度は確かに低めで、更に榎本の近くにあったビールも見知らぬ内に空になっている。それが冷えた身体に追い討ちとなったのか定かじゃないが、取り敢えず土方は上着を渡し。それにくるまった榎本に、今度は土方が肩を貸す

「自業自得だな」

言いながら肩口へ抱き込んだ頭を上向きにさせ、寒さで小刻みに震える口元を己とのを合わせた。抵抗も無く容易く入り込んだ中は冷たく心地良い。そして土方は熱を分け与えるべくヒンヤリとした舌を絡め取る

「んっ、…ぁ─…」

微かに漏れる声に急かされ徐々に激しくなる行為

「っ…ね、見えない…」

いつの間にか今度は熱いくらいになった咥内から息苦しくなったのか、榎本が土方の肩を押し上げ顔を引く

「さっきからアンタも見てねぇクセに…だから甘えてンだろ?」

少し辺りの視線(女性グループの集団)を気にている事や、寒いとか何とか途中から榎本の気は映画から殆んど反れている事を、土方はとっくに知っている。喉を鳴らしながら相変わらずの小声で耳元で言うと、榎本も小さく吹き出して笑った

「分かった?」

「分かってた」

互いに漏れる笑いを堪えようと再び唇を交わす。

スクリーンでは、山場を通り越しクライマックスを向かえた主人公と女のキスシーンが繰り返されている。その途中で又しても強い視線を感じた土方が、口付けを続けるまま横目だけで斜め前を見ると、あの集団の視線が有り。
僅かに意地悪く歪めた口元で更に深く榎本へ噛み付くと、小さいながらも悲鳴が此方の位置まで届き。慌てた様子で目を背けられてしまった。
すると、先程までの苛つきは一瞬にして消え失せ。煙草を欲しがっていた物足りなさも十分にキスで満たされたが、ざわめく女性客の反対側の辺りから、如何にも不機嫌そうな男の大きな咳払いが一つ聞こえて来た。

スクリーンで未だに流れるハッピーエンドの最後に、女が主人公の耳元でなやめやしくラテン語で

『Amor tussisque non celantur』

と囁いた


「字幕、見て…」

「?」

クスクス笑う榎本に土方も囁かれてスクリーンを横目で見ると其所には



 恋と咳は隠せない


白い字幕の文字で綴ってあった





------------
※『Amor tussisque non celantur』
ローマ文学詩人・オウィディウスが宣言したイタリアに伝わる格言
 

雨の日の午後

目覚のKissはミント味
 

スッと寝返る。

「………ン。…?」

瞼を綴じたまま、もう一度寝返り、シーツの上に腕を滑らせた。しかし、その腕は何も掴めず、何も触れない。床に就いたのは明け方近くで、寝付く寸前の記憶を辿れば、昨夜は確か、隣に……

「……………。」

重い瞼をやっとの重いで薄く開く。そこには、やはり何も無かった。
閉じられたままのカーテンの隙間から少しの漏れ日。既に陽が昇ってから時間が経っている事は容易に想像が出来る。まだ上手く働かない頭でぼんやりそんな事を考え、空っぽの腕で暫く待つが、どうやら、時間が勝手に流れてくだけのようだ。何処に行った?かと、脚を床に降ろし、ベットに腰掛けてみたものの、どうも動く気にはなれない。起き抜けは、自他共に認めている程よくないのだ。方々でもプライベートでも指摘される事が多々あるが、体質だから仕方無い。それでも、このまま居ても埒が明かないため入口へ赴いた。

そして、漸く寝室を出たまではいいが…、まず眩しい。陽の差し込む開放的なリビングは清々しい朝を向かえている。だが、そこも空。人の気は微塵も無い。シャワーを浴びているのか、既に何処かへ出て行ったのか。因みに二日間丸貫徹明けのため、それを気遣い声を掛けなかったのか、声を掛けられたのに気付きもせず寝入っていた可能性も、寝惚けて自分が覚えていない可能性も、無きにしも有らずだ。取り敢えず、シャワールームを確認しようとした途中で、音が聞こえてきた


「ん?…おぁほ、もぉおこひふお?」

「………あ?なに言ってんのかさっぱり分からねぇ」

首を傾げると掌を顔の前に突き出される。ちょっと待て、と言いたいらしい。急いで歯磨きを止めて口を濯ぐ横で、言う通りに待つ

「歯みがき粉、もう少ないけど無いの?」

「…買い置きしてねぇや」

「買って来ようか?まだ寝てるんでしょ?」

「……いや」

「あ、今日少し早めに出るから」

「聞いてない」

「言ってないもん。君仕事してたし、書き置きして行くつもりだったから」

「………。」

バタバタと話ながら身支度を整える榎本の後を、掴まされた歯みがき粉のチューブを手に付け回す。瞬く間に榎本はキッチリ堅苦しい背広に身を納め。スリムなフロックコートを着込み鞄を掴んだ。

「うわ遅刻する。ごめん、もう出ないと」

チラと見た携帯をコートに入れ、一目散に玄関へと向かい。革靴に足を通しトントンと爪先を馴らす。

「コーヒーならソーサーに残ってるから。じゃ、土方くん、行くね」

徹夜続きの寝起き直後には、その榎本の素早い動きに追い付けず。反応を返す間も無く重たい扉がバタン。と閉じるのをただ黙って聞いていた。身形も時間も仕事もスマートを極める奴にしては、余裕が無いとは珍しい事もある。と思いながら、持たされた歯みがき粉のチューブをテーブルへ放り。ふう、と一息つく。


「……あ?」

いま閉まったばかりの扉が、また開いた

「土方くん、ちょっと」

「忘れ物か?」

「早く早く」

携帯はコートに入れていたし、手に鞄も持っている。ライターか煙草?腕時計か?と思案したが、榎本は扉のノブを押さえ、半開きにした所から顔を出して急げと手招く

「忘れもの」

榎本の唇が、土方のを掠め取った。
そしてふわっと歯みがき粉の爽やかなミントが香る

「それじゃ」

「………待て」

「ん?」

振り向いた榎本に、一瞬、言葉を呑み込んだ

「送ってく。」

その帰りに、無くなった歯みがき粉と同じ物を買って来よう。と土方は思った
 

目覚のKissはミント味

正しい誕生日の過ごし方
 

五月の大型連休…いわゆる黄金週間も終盤。
夜のテレビのニュースでは帰宅ラッシュとやらで首都高に連なる車の長蛇の列が流れいる。旅行か帰省か、いつも都会で蟻のように働く人達の蟻のような行列を、上空からヘリコプターで撮影しているこの時期の風物詩だ。そんな映像を榎本は尻目に、片手にほぼ空の缶ビール、もう片手には携帯電話を握っていた。

「ふぅん、じゃあ当分まだ時間無いんだ…」

眉間に寄せる柳眉は生憎、電話の向こうには見えていない。ただし、平然など装えず声は重たくなる。口の中がすっかり苦くて、それでも酷い渇きを覚えてそこへ更にビールを流し。軽くなった缶を部屋の隅のゴミ箱へ投げ付けたが、缶はカコンッと箱に弾かれて床に転がった。

無性に、苛立つ。別にゴミ箱に上手く入らなかった缶では無くて。
確かに自分は遠出するほどの連休は無かったが、出掛けようと思えば出掛けられたかもしれないのに、結局、休日の夜は一人部屋でテレビを眺めて缶ビールを煽るような、普段と何も変わらない日常的な休日を過ごしているが、おそらく、そんな自分より遥かに黄金週間らしい休日を有意義に過しただろう映像の中にいらっしゃる大衆の方々を皮肉りたい訳でも羨ましい訳でも無くて。

ただ、この連休以前より自分を放り出しておきながら電話越にまだ暫く忙しいと告げてくる仮にも恋人に、苛立ちを隠せないだけだ。

『──…それで、…オイ、聞いてるか?』

「ん?…うん」

『どうした?調子悪いのか?眠いなら言えよ』

別な事に気を取られた自分の鈍い反応に、普段は絶対他人に聞かせて無いだろう優し気のようでどこか気弱な声が届く。本当に気遣っているのか、何とか丸く納めようとしてるのか…、と勘繰る自分は薄情だろうか。


「何でも無い。大丈夫」

『ならいいが…。一段落したら埋め合わせは必ずするから。な?』

「ん、」

『どっか、温泉とか何でも遠出したい所とかねぇか?一泊程度で休み合ったら直ぐ行けるようなトコ。考えとけよ』

「うん」

自分がこうしたイベント事が好きなことは知っていて、そのうえ暫く会えないとなれば、負い目は感じてくれてるようだ。が、しかし、そんな甘い言葉も今はただ神経を逆撫でる。
そんなの期待してないし。そうして欲しいんじゃない

『悪ぃが、まだ立て込んでっから、そろそろ切るな』

わかってる。何よりも仕事は大事だ。『仕事と私どっちが大切?』なんざ、頭の悪い女じゃあるまいし。そんなもの絶対言わない。

「お疲れ。無理しないでね」

わかってる。向こうだって会えない事を自分と同じくらい気にしていて。どこもかしこも連休だ何だと騒ぎ立てる中で、気遣うような声色は言外で『寂しいだろ』と聞いている。何もかもわかってるから、一つだけ、今日は伝えておきたい事がある。いや、今日だからこそ自分には言わないとならない事がある。

『じゃあ、また連絡する。おやすみ』

「土方くん、」

『ん?』

「もういい。」

『は、』

落ち着いてるようで冷めた自分の言葉に電話の向こう側が絶句したのが分かる。

『ちょっ待てオイ・・・』

「キライ。」

そう言ってプッツン。通話を切って直ぐに相手の番号を着信拒否に設定した。そして床に座って背凭れにしていた背後のソファーの上に携帯を放り投げ。冷蔵庫から新たな缶ビールを出すとプルを開け一気に半分ほど喉へ流し込んだ。ゴクリ、喉を動かして一息つき。そのままズルズルと座り込むと、暖色照明のスタンドとテレビの明かりで薄暗い部屋の中、暗い心をもてあます。

本当は、この黄金週間だのはどーでもいい。その連休に会えなかった穴埋めや、御詫びなんてモノも期待していない。

そして本当は、あんな冷たい言葉をぶつけるもりも無かった。今日だからこそ伝えておきたい事があった。いや今日に限り、自分には言わないとならない事があった。
なのに、あんな事を吐き出してしまった自分は、つくづく聞き分けが良くなくて、我慢が足りなくて大人気なくて、確かにいけないと思うが、あんな心にも無い事を言わせるような相手も悪い。

今日は、黄金週間の最終日で、祝日で言えば端午の節句で、
何よりもまず土方の誕生日、だった。

帰宅ラッシュの列もそろそろ緩和してくだろう時間帯で、テレビのニュースではもう今日1日の纏めに入り。残り一時間も満たずして今日が終わるのを告げている。そりゃ直接会って伝えたかったが、仕事が立て込んでるとなれば仕方無いのだ。それは、ちゃんとわかっていた、つもりで。だから本当は、あの電話で、あの時のタイミングで、自分は気持ちを伝えるべきだった。のも確かにわかっていたのに、そう出来なかったのは勢いと言うか、間違いと言うか、苛立ちばかりが先走り、口から勝手に飛び出していた。思ったより自分は不安定になっていたらしい。

本人は、きっと自分の誕生日などどーでもいいのだろう。気にするような年でも無く、気に掛ける物でも無い。と思っているに違いない。それは本人の勝手だから、何も構う事ではないかもしれないが、祝いたいと思う者の気持ちまで、どーでもいいと思っているのだろうか。だから、心置き無く仕事に精を出して、こちらの態度ばかり気にして端違いにもまずこの連休の埋め合わせなんて事を考えているのかもしれない。
思い遣ってくれているのは勿論、嫌な気などするわけ無いと言えど、それでこちらの思い遣りに気付かないでは、つくづく損な性分だ。
電話の奥で、寄りにも寄って誕生日にキライと聞かされた相手は今頃どうしてるだろうか。相当驚いていたのは電話越しにも伝わってきたから、少しは痛い目に遇っているかもしれないし。見当違いにも連休の穴埋めをどうするべきか本気で頭を悩ませ始めたか。
もしくは、気性の荒い性だから逆ギレでもしてるかもしれない。
いずれにせよ、自分の事を考えてくれていればいい。と願う自分は、やっぱり、つくづく聞き分けが良くなくて、我慢が足りなくて、大人気なくて、いけない奴だからだろう。

アホくさ…、寝よ。

15分ほど経っていただろうか。情報番組は終わり、握っていた缶ビールの中も空になっている。“今日”の残りは片手で数えられるほど数分しか無くなった。テレビの電源を落とし。缶をテーブルに置いた勢いで少しよろめきつつ立ち上がって、寝室に向かった。

今日はもう終わるしか無いが、こんな事くらいで関係が終わってしまうとは思っていない。明日になれば電話でもして、今日の事と一日遅れた事を謝ってから、きっと気持ちを伝えられる筈だ。だからさっさと明日に成ればいいと、ベットへ入ろうとした、時だ。ガンッ!と言う大きな音の次からガンガンガン!!と玄関先で物凄い音がした。余りにも物騒で騒々しい物音に身構えると、その後からは

「開け、やがれ……」

電話越しでは無い電話と同じ声が聞こえてきた。機械で聞いた時にどこか頼り無く感じたが、今はそれが消え入りそうなモノで。見れば、鍵を開けたもののチェーンロックで阻まれているのが我慢成らないのか、扉の隙間から物凄く物騒な目が、覗いている。これが見知った仲でなければまず通報してただろう。

「…なに、」

「うるせぇ早くっ」

怒鳴られて、急いでロックを外すと、扉を抉じ開けるよう開いた土方が、玄関へ雪崩れ込み。その場の足許にドサッと座り込んだ

「ちょっ…なにしてんの」

土方の答えを待つが、背中を壁に預け、肩を揺らして息をしながらゼエゼエと派手な呼吸音だけを鳴らす。時折、咳き込んで噎せ反ったりしていて、とても話の出来る状態では無いらしい。土方が居ただろう場所からここまで歩いても30分やそこらじゃ着かないだろうに。真夜中に、死にそうになりながら走って来たらしい。仕事を放り出して。

「大丈夫?タバコ減らせば?」

隣に榎本もしゃがんで背中を擦った。こんな時にも、つい憎まれ口を叩いてしまうのは性だ。いつまでも苦しそうな呼吸は落ち着かず、榎本は水を持って来るのに離れようとすれば、グッと手首が掴まれた。その先の土方を見ると咳で涙に潤んだ双眸と見合う。

「まだ…、今なら、間に合うから、言え…」

荒い息に邪魔され酷く掠れた虫の声でも、それを榎本はしっかり聞き取った。

しかし、滑り込みもいいところだ。あんな言葉を真に受けて。今日の日をどーでもいいと思っているのは本人だけだと言うのに気付いたのか。そしてそのたった一言を、言わせる為だけに形振り構わず走って来たにも関わらず。この期に及んで言え。とはなんで偉そうなのだろう。また少し、素直じゃなくて意地の悪い自分が出てくる

「何を言えって…?」

「戯けンな…時間ねぇから…早く、聞かせろ…そんで、礼させろ」

頬に伸びてきた掌はかなり汗ばんでいて異様に熱い。季節は春もまっただ中で、夜は少し肌寒いくらいでも、走れば汗も流れて。髪も振り乱れていて、この今日と言う日にせっかく持って生まれた顔も格好もぐちゃぐちゃで情けない。なのに、すごく、愛しく思えた。

「あーあ、祝うならちゃんとお祝いしたかったのに。君さぁ、コレじゃ男前も何もかも台無し」

「アンタが、あんなこと」

「うん、さっきはごめんね。アレはウソ。もうぜんぶ許した」

ちょっと勿体振るようそこまで言って、土方の顔を見ると、なんだか少し泣けてきた


「やっぱり君が好き。それと、誕生日おめでと」

ケーキもムードも何もない玄関に座り込んで、2人。お詫びとお祝いとお礼と、愛情が入り交じったキスはしょっぱいモノだった。
 

正しい誕生日の過ごし方

So it turned out

この度ようやく、慌ただしかった俺の誕生日の穴埋めとして温泉旅行へ行く事になった。温泉旅行は俺達2人にとってこの上無く都合が良い。勿論、風呂が好きな俺だが、榎本さんは風呂上がりの酒に目が無く。水が綺麗な場所の地酒は大抵が旨いからだ。

しかし、温泉があれば何処でも良いと言う訳じゃなく

「えーっ、絶対に海だよ。海の見えるトコがいい」

「この時期は山だろ?山のほうが涼しいじゃねぇか。それに、アンタ海水浴場に連れてくとナンパが煩ぇ」

「それはコッチの台詞ですー。キミが目立つんだよ。だから海が見えたらそれでいいんだけど…あ、圭介!圭介はどっちに行けばいいと思う?」

「間を取って川はどうだ?そんで、滝行でもして日頃から不純な2人の身を清めてくるんやな。どーせ温泉旅行だって酒飲んで風呂入って不純な行為しまくるだけなんだろ?どっちでもいいじゃないか。僕に聞くなよなー…ったくぐふぉっ!ちょ土方くん!?痛いっ!痛い痛い!殴るなよっ…!暴力反対いぃいい─!!」



そんな訳で、川の傍にある温泉街を選んだ。しかし言うまでもなく滝行なんざしない。ただ温泉へ入りに来たんだ。
その途中、幾ら休暇と言えども管理職だからか、上着の胸元で携帯が鳴り続け。仕方無く出て手短に用件を済ませ。ギャンギャン喚く野村の声を強引に途絶え。俺はブツリと電源を切った電話を榎本さんに渡して、またハンドルを握った。携帯が鳴る度に浮かない顔をしていたのも気付いていたし。電源を切った途端に一瞬、驚いたようだが、顔が綻んだのも俺は見逃さなかった。
ただ口だけは可愛気ねぇ事に、運転しながら携帯で話すのは止めろと、何度も聞かされるのを受け流しつつ、途中で酒屋に寄り、地酒や何やら肴も買い込み。目的の場所に辿り着いた。川なら良い旅館がある。と大鳥さんが予約をした場所だ。アレでも趣味の良いあの人が太鼓判を押すだけはある、雰囲気の整ったなかなか立派な宿で、俺たちは出迎えられた女中に従って部屋に入った。



川の細流が絶えず聞こえ、青緑の景色も清々しい基本は和室。
ただ、寝室は別でベットになっている。それは榎本さんの好みに合わせてだ。因みに、しっかり豪勢な誂えの部屋風呂も完備されている。そこは、俺が事前に大鳥さんへ注文していた所だ。

榎本さんは暫く窓からの眺めを満足した様に見ながら早々に一献やっていたものの、直ぐに俺の方に振り返った。満面の笑みで。

「風呂、行こー!」

部屋に付いてんのに。大浴場も入りたい。とせがまれて、一緒に出向き。
そして、裸にタオル一枚とは、中々の眺めだ。頻繁に見ているとは言え、場の違いは何故か見方も変わって来るらしい。
引き締まった身体に、細い腰つき。洗い髪が濡れて頬に張付いている姿は、情時揺さぶっているのと同様に見えて、とてつもなく色を含んでいる。故に、他の奴に見せたくねぇ。
コレだから海水浴も許せねぇし。部屋風呂付きの場所と頼んだ訳だ。湯船に浸かり月明りなんかを眺めながら、徐々に火照っていくのを横目に、己のどうしようも無い嫉妬心に、半ば呆れるものを感じつつ。俺は辺りが薄暗いのをいい事に、岩陰に連れ込んで唇を奪った。

「ココ、居心地は良いが、まだベットの寝心地は確かめてねぇだろ?」

これ以上の事を此所でされたくなかったら、早く出るぞ。と

あぁ、風呂に入る前に部屋で二合は呑んでいたからか、湯に当たったのか、真赤になったのを見て俺は笑った。
 

So it turned out

あきのひに
 


「たまには、こんな感じもアリだよね?」

「まぁ、たまになら…」

最近出来たばかりのオープンカフェが美味しいランチを出すらしい。もちろん珈琲も最高なんだとか、そんな情報を榎本が仕入れたのは昨日のことだった。明日、一緒に行かない?そう土方に提案し、案の定最初は渋ったものの土方は結局のところ今ここに来て、香りも味も申し分ない珈琲を楽しんでいる様子だ。いつもは寝て終わらせるか溜まった家事を片付けているような、たかが休日、
けどもそれが土方と一緒となれば、榎本にとって少し特別な意味を持つ。

「洒落てるカフェ、オープンテラスで食べるランチ、天気は秋晴れだし。いい感じじゃん」

「アンタと行くっつったら大抵は居酒屋だしなぁ」

「それも譲れないけどね。こっちのほうが洒落てていいじゃん」

「あっそ」

胸を張って主張する榎本に、土方がクスっと遠慮なく声をこぼす。
秋を感じさせる風が緩んだ頬を撫でていった。

「あとは、本とかあれば文句ないかな」

「ああ、読書の秋?」

こんな天気のいい日に美味しい珈琲をお供に、お気に入りの小説を読む。もう少し風は冷たいけれど、うん、悪くない。思って榎本は、弧を描いたままだった唇をカップの縁にあてて隠した。

「普通はソコで女ってのが出てくんじゃねぇの?」

「…ん?」

「こんなカフェに、男連れじゃあ絵にならねぇだろ」

カップを上げていてよかったと、歪んだ唇に榎本は思う。

煙草を宛がう口許に弧を描く目の前の男前を見ていると、胸の奥がじくじくと痛んだ。男なのだから女の子の方がいいのは当たり前だ。それは自分も同じ男だからよく分かっているし。辺りはどこもやはり男女だったり女同士だったり。今の自分が例外だというのも榎本は十分理解している。

「うん。確かに、男同士でいるよりかはよっぽどこういう場所にはいいかもね」

「だろ?」

吐いた強がりをニコニコと肯定され、榎本はますます傷口が開いた気分だった。自棄のように口付けたカップは、珈琲の酸味しか舌に残らない。先程まではあんなに美味しく思っていたのにと榎本は、自身の落胆ぶりに残り少ない冷めた水面を見つめた。
それじゃ自分の誘いをキッパリ断ればよかったのに、と土方に対して怨みも思う。そうしたらこんな気分を抱かず済んだのにと、思えば思うほど、榎本の胸はますます痛んだ。この傷に塗る薬は、まだ見付けられていない。

ならばさっさと帰ろう。そう決めて榎本は、もう美味しくはない珈琲を一気に煽った。

「まぁ、俺はアンタと居れりゃどこでも構わねぇけど」

「ぶっ!」

まさに不意打ちだ。テーブルに頬杖を付いて、揶揄するようにでも無くて、ほんわりした顔で告げられた土方の科白は、最後の一口だったものを霧状にして榎本に吐き出させた。

「うわ、ちょっおまっ…」

「っ、、なにっ、げほっ」

「取り敢えず、大丈夫か?」

「はっ、や、」

「なんだよ、嫌なのかよ」

「ちがっ・・・」

急に何を言い出すんだ、と息も絶え絶えに告げれば、思ったことを素直に言っただけだと返される。
土方がどういうつもりで言ったかは知らないが、榎本としては頬が熱くなる思いでいっぱいだ。この遊び人な男前はどうせ男同士でいる方が気が楽だとかそういうことだろう。そう思うのに、榎本の心は僅かな期待に脈が早足で駆けている。

取り出したハンカチで口元を拭いながらちらと土方を見遣れば、空になったカップをソーサーに戻しながら、もうひとつ飲もうか否かと、すでに違う話題に思考が飛んでいる。幸か不幸か、榎本としては複雑な心境だ。それでも傷だらけだったはずの胸はもう、先程までの痛みを無くしていた。

「なぁ」

「な、なに?」

「追加すんのか?」

「……する。チーズケーキのセット」

「夕飯食えなくなるぞ」

「食べたい」

「あっそ」

頬の赤みは噎せたせいにしよう。土方が片手を上げて店員を呼んでいる横で、榎本は人知れず息を付いた。注文して、ケーキが届いて、色々話しながら、珈琲を飲んで、ケーキを味わって食べ終わるのに、少なくとももう30分は時間を掛けよう。
その分だけ、デートは延長だ。
 

あきのひに

頬を染める2人
 

冬が迫るこの時期になると、世の中が風邪だインフルエンザだと騒ぎ始める。手洗いうがいを徹底的にしろ、マスクをしろと騒ぎ立てる世間に半ば辟易しつつも、今ではそれらが最低限どれだけ大切かを身をもって知った。

「んー……下がんないね」

「……寒ぃ。っつか熱い」

「どしたらいいの、それ」

ピピッ、と電子音を響かせた体温計を俺から抜き取りながら、榎本さんが眉を下げて小さく溜め息を吐いた。そこに表示された数字は教えてもらえず、自分がどれだけの体温なのかここ二時間ほどはわからない。ただ顔を曇らせるコイツから察しなくても、異常であるのはいま己自身が身を持って知っている。最悪だ。折角の休日がこんなことで潰れるとは。

「なんか食べて、薬飲みなよ」

「こんなもん、寝てりゃ治る」

「寝てても治らないから熱が上がってんでしょうが」

「……」

反論できないのはその通りだからで、それでも食欲なんて微塵もないのだから仕方ない。それ以前に正直なところ、体を起こすのもしんどい。ちょっと頭を動かすだけで目眩がする。そんな弱みをこいつに見せたくないから、俺はさっきから布団に潜ったまま。
すると、手負いの獣じゃあるまいし。と突っ込まれ、布団から出された額に冷えピタが乗っかってくる。見慣れた天井が今にも迫ってきそうな錯覚さえするのだから、風邪なんてひくもんじゃない。

「なんなら添い寝でもしてあげよっか?」

「あ?」

「ほら、風邪を引いたら汗をかいて熱を下げるっていう、」

「テメェ…ワザとに言ってんだろ、治ったら覚えてろよ」

「じゃあ言うこと聞いて、早く治してよ」

こんな時に限って、いや、こんな時だからこそ、悪戯っぽく不埒なことをぬかしてベッドの端に腰をかけた榎本さんが、幾分冷たい掌で俺の頬を撫でる。熱いせいでその冷えた指先が心地良い。思ってても、死んだって口にはしてやらないが。そして弱る俺を前に唇を緩める顔が憎たらしい。いや、いっそ腹立たしいといっても過言じゃない。ただの八つ当たりかもしれないが

「まぁまぁ、そんな不機嫌になったってひいたもんは仕方無いじゃん。ちゃんと甲斐甲斐しく看病するから」

「いっそのこと留目を刺してくれ…」

「ひどっ、」

「せめて大鳥さん呼べ、大鳥さん」

「あーもう煩い!病人は黙ってなよ」

口では傷付いた風に言っても、崩れた顔が俺を見下ろしている。
甘やかされるのは得意じゃない。寧ろ苦手だ。どう反応すればいいのか分からない。こんな時くらい素直になれと言われたところで、なれるわけもない。なったらなったで相当具合が悪いと逆に心配されるだろう事は容易に想像できる。慣れないことはするもんじゃねぇ。

「とりあえずお粥、食べなよ。折角作ったんだから」

「……食えんのかよ。食ったら俺死ぬんじゃね?」

「大概失礼だよね、君。大丈夫だよインスタントだもん。それから温かくして、ゆっくり寝て、ね?」

ずっとここにいるよ。と、やっぱりどう見てもやけに楽しそうな榎本さんに訝しさを多分に含めた視線を送れば、誤魔化すように降って来た唇が額に触れてベッドから重さが離れていった。
大方、俺が寝込んだことであれこれ出来るのが嬉しいとか、そういうところだろう。覚えがある分、責めることも出来ないのが何とも言えない。上等だ。必要以上にこき使ってやろうじゃないか。
一晩中いてくれる、それに安心したなんてのは言ってやらないけれど、すっと落ちた眠りで相手にはバレたかもしれない。
 

頬を染める2人

キャサリンには譲れない


「はぁ……」

携帯を握り締めたまま吐いた溜め息は、冷えた室内という環境のせいもあってか、開いた状態のそこをうっすらと白く曇らせた。
とうに液晶画面は暗く照明を落としているが、榎本がそれを閉じる気配はない。もしそこが急に光ったなら、それは榎本が今現在もっとも望む状況に近くなるのだけれど、その気配もまた、ない。

「……はぁ……」

メールが、来ない。電話も、来ない。とくに用件は無いのだからそれは大した問題ではないのだけれど、何も来ない、というのはそれだけで問題にもなるのだと、榎本は身をもって知った。

今、彼が待っているのは、今夜に海外出張から戻るらしい土方からの連絡だ。ただ、土方の安否の為に付け加えるが、決して何日も音沙汰がないわけではない。そうなれば榎本も溜め息だけでは済まさないだろう。彼から榎本の元へメール、または電話の連絡がないのは、携帯の履歴から言えばたかだか4時間という映画にしてみれば2本分の時間だった。

「…なんでなんも言って来ないの」

ぽちっ、と適当なボタンを押せば、途端に液晶に明かりが戻り、何ら変わりない待ち受け画面が現れる。受信も着信も知らせてくれないそこに、榎本の眉間に皺が寄った。
帰宅した間際に、土方から一通のメールが入った。勇んで直ぐ返信をしたのだけれど、その後の応答はない。何か不手際があっただろうかと送信メールを何度も読み返したが、落ち度は見付からなかった。ならば何故返事が来ない、と榎本は思う。榎本の中では、送った文章が了承の言葉ひとつだったことは、落ち度にならないらしい。

「さては、ロスで引っ掛けた女に空港ロビーで泣き付かれて乗り遅れたんだ。女の名前はキャサリンで、金髪のグラマラスな美女。歳は、大体20代後半の娼婦らへんかなあ…」

ヘラリ、と笑ったがすぐに自分で言って自分で酷く傷つく。ちょっと洋画を見すぎな頭は、本当に変な妄想だけは広がるわけで。

「いーなー、グラマーな女の子とお付き合いしたい。浮気してんならこっちだって浮気してやるんだから」

浮気を前提に浮気者だとか、色惚け野郎とか、覚えてろよとか、適当にゴロゴロとソファーの上で喚いた挙げ句に今度は

「……腹、減った……」

ぽつりと溢して見上げた時計は、もはや夕食と呼ぶには遅すぎる時間を指している。一緒に食べようと言われたからその誘いを受けたのに、どこで何を食べるのかも決められず、榎本は大人しく自宅待機を余儀なくされているのだ。自分があちこち歩き回れば擦れ違い、更に会うのに時間が掛かる可能性をよく分かっているから。こちらから電話してみようか。思ったけれど、履歴を探る前に榎本は携帯を閉じた。それじゃあこんな時間まで楽しみに待っていたのにと教えるようなものではないか。

「……あぁー、もう!」

がしがしっと頭を掻いて、体を預けていたソファから勢い良く立ち上がった。強くはない体が一瞬目眩を訴えるが気付かなかったことにして、キッチンの買い置きリストを頭に描く。カップ麺はまだ残っていたかな、と昨今栄養管理にもうるさい同僚(松平や大鳥)と、連絡を寄越さない男に止められていた久々のお気に入りを思って榎本は一歩足を踏み出した。それを止めるように、来客を知らせるインターホンが静かだった室内に響く。

もしかして、と思う間もない。榎本は取り繕うことも忘れて玄関へ飛び出していった。勢い良く開けたドアの向こうには、両手一杯の袋と、遅れて悪いと鼻の頭を寒さで少し赤くして申し訳なさそうに笑った土方がいた。

「取り敢えず土産の酒だ。それに合うもんでも食わせようと思って、考えながら買い物して来たら遅れた。連絡もしねぇでごめんな」

差し出された紙袋を一つ受け取って抱えると胸の真ん中がぎゅっと締め付けられた気がする。榎本は覚えずそこに手をやった。
お帰りとか、そんなことなら一緒に行ったのにとか、伝えたい言葉がたくさん浮かぶ。それなのに口をついて出ていった言葉は、まったく違うものになった。

「…腹減って、死にそう」

「はいよ。えらく不機嫌だな。悪かったって」

靴を脱いで上がる拍子に、チュ。前髪を掻き上げ額にキスを落とされると、たちまち不機嫌だった事も次第にどうでもよくなっていくわけで。完全に誤魔化されてる…。とわかっていながら、でも結局は、会えればそれで満足してしまった自分に内心だけで舌を打つ。

「…どうした?まだ怒ってんのか」

「…別に…ま、こんなことをキャサリンにもしたのかなって思って」

「キャサリン?」

「いや、こっちの話し」

不思議そうに首を傾げるが、パタパタと室内に入っていく土方の背中に本日特大の溜め息を吐いた。ありがとうも言えない自分が、この気持ちを伝えるのは、もう一生無理な気がした。






漸く食事を済ませ後片付けも終え。榎本は溜め息を吐き食後酒にシェリーを傾けつつ、近くのソファに腰掛ける土方を見た。長い足を組んで、タバコに火を点けている。

「…どうした、不味かったのかよ」

「いいや、美味しかったよ。そうじゃない…」

「あ?」

ニヤリ、と笑みを浮かべた土方はタバコの灰を一度近くにある灰皿に落とした。そして再び咥えて榎本に、来いよ、と手招きをする。
それに答えるようにして、榎本がグラスを持ったまま近づけば、腰に腕が回り倒れこむように土方の胸元に収まる。

「そう言えば、キャサリンって何だよ」

「ん?」

「さっき言ってただろ。キャサリンがどうって」

「……あぁ…それね」

少しは腕の中から離れようとするがしっかりと腕で固定されているため抜け出せない。土方はタバコを吸いながら、黙り込む榎本に目線を移して、何をいい淀んでいるのかを既に理解しているように、クツリと笑いそっと頭を撫でる。

「きっとグラマーな金髪美女と浮気でもしてたんじゃないかと思ってさ。ただの妄想かつ皮肉」

「アホか。テメェと一緒にするな」

「失礼なっ!そんなことしませんー」

「じゃあ洋画の見すぎなんじゃねぇの?」

ふん、と鼻を軽く鳴らしてグラスに口を付ける榎本に土方は反対側へ紫煙を吐き、タバコを吸殻の上に乗せた。

「寂しかったならそう言えよ」

「は?…あー、まぁね」

「返事を濁すな」

「なに、急に…」

榎本は鬱陶しそうに眉を吊り上げ土方を睨む。睨んだものの全く効果はなく、グラスを取り上げられた。

「返してよ、まだ入ってるじゃん」

「質問に答えたら返してやるよ。寂しかったか?」

「聞きたいの?」

「聞きたいから訊いてんだろ?」

ムッと唇を榎本は尖らせたが、直ぐに笑みを零して。ようやく言う機会に恵まれた言葉と共に、土方の口許を啄んだ。


 

キャサリンには譲れない

キミの機嫌と秋の空
 


仰いだ空は、澄み渡るよう青く高く見えた。気持ちが良い秋晴れだ。それなのに、あっと言う間にいつしか雲行きが怪しくなってきた途端、耳に届くのは木々の葉を打つぱらぱらとした雨音。

ナントカと秋の空は変わりやすいと言うのだから天候の移り変わりが激しい季節だ。一段と気温も下がってしまった。また冬に一足近付いたか。先程まで賑わっていた公園も皆慌てて家路へついてしまった。出しっぱなしの遊具は、止んだらまた遊びに来るのだろうご近所さんを教えている。

「…チッ」

東屋のないこの公園で、雨宿りをするでもなくベンチに腰掛けたままの土方は、家が近いとは羨ましい限りだ。と独り面白くない感情に舌打ちした。視界に映る無人の砂場には、玩具の熊手や可愛らしいスコップが小さな主人の帰りを待っていた。今頃は、おやつでも食べながら雨が止むのを今か今かと、大きな瞳で窓を見上げているのだろうか。

「…そいや腹減ったな…」

だらりと投げ出した足。靴が雨を吸って色を変えている。湿って張り付いた生地を指先で広げ進みながら探ったポケットには、缶コーヒー一本分がぎりぎりの小銭が入っていた。これでは腹の足しにはなりそうにない。煙草も、咄嗟に握り締めて来たものの、雨宿りもしていない身分では直ぐに湿気ってしまうから諦めた。財布持ってくりゃよかった。と言う後悔は眉間に寄る皺が訴える。そういえば携帯電話も置いて来てしまった。
深い溜め息を吐いて頭を落とせば、髪からぽたぽたと零れた雫が頬を伝っていく。首筋を通った水はシャツに吸い込まれ空からのそれも足されて随分と重さを増していた。そして寒い。帰りたくても帰れない。戻りたくても戻れない。行き場がないとはこのことだろうか。土方は思って、また息を吐いた。寒さで息は白く濁って出てきた。項垂れた土方の背中が、雨に晒される。激しさを増したそれさえ、味方にはなってくれそうもない。

「水も滴るいい男、ってもそんな顔じゃあ様になってないね…」

濡れた砂を踏み締める音がして、呆れた声が土方にかかる。顔を上げなくとも分かるその尊大な声の主は、一歩一歩ゆっくり土方へ歩みを進めた。落とした土方の視界に、見慣れた靴先が入る。それとほぼ同時に、土方へ降り注ぐ雨が遮られた。


「雨に打たれて楽しい?」

「…出てけって追い出したのは、どこの誰だよ…」

「はーい。…でもあの時は降ってなかったし?」

「あぁそうだな…」

真剣に言っているのか、揶揄っているのか、はっきりと訊いてみたいところだ。目一杯に不満気に眉を吊り上げて見上げた先には、悪びれた様子の一切見えない榎本が、同じ傘の中できょとんとした顔を見せていた。数十分前に見せられた、眉間に皺を寄せた表情とは随分差がある。刺々しかった声も、今は常のものと変わらない。ああ、秋空のように移り変わりが激しい。

「傘ぐらい買えばいいのに。女の家行くとかさ」

「財布も携帯も、持つ暇なく誰かさんに追い出されたんじゃねぇか」

「あ、そういや家にあったかもね」

「…っんにゃろ……」

分かってんなら訊くなよ…!!それに本当に女の所へ行こうものなら締め出しくらいじゃ済まないクセに。思ったけれど口には出さず、土方は心の中でそれを叫んでおいた。榎本が今、自分を揶揄っているのは火を見るより明らかだ。ここで食いついてしまえば、相手の思う壷。ここは一つ、さっきの仕返しに冷たくしてやろうか。そんなことを企んだ矢先…


「まぁ…だから…迎えに、来たんだけど」

見開いた土方の目に、赤く染めた頬を人差し指で掻く榎本の顔が映る。照れからか視線は定まらず、あちらこちらに泳いでは、時おり窺うように土方をちらりと見た。冷たくする?そんなのは無理だろ。こんな可愛らしい『ごめん』を見せられては

「…戻る、…?」

ぽかん、と開いたままの口が何も発しないせいで榎本の問いが少々の不安を滲ませる。傘の上を踊る雨粒も、土方の答えを待つように音を小さくして弾んでいた。

「あぁ…寒い。腹減った」

「飯、適当に作った…」

「はっ、マジでか!?」

「あ、味は保障しないけど、さ…」

覚えず声を弾ませた土方に、榎本の焦った声がとりあえずの釘をさす。それでも土方の顔は、雪崩るように崩れていった。追い出されたことも、喧嘩をしたことさえも忘れていそうな満面の笑みは、今、まさに雲間から顔を出した太陽のようだ。

「どれ、ちょっと味見」

「はっ?……っ!!」

言われた意味が分からず訝しんだ榎本の目の前に土方が不意に立ち上がる。さすがというべきか瞬時に間合いを詰めた土方は、雨に濡れた人差し指を榎本の唇に当てた。味見、の意味を伝えるように、ふにっと押してみる。それがスイッチだったんじゃないかと思うほど、途端に榎本の顔は耳まで真っ赤に染まった。傘を持つ榎本の手に、空いた片手を重ねる。
周りを気にして視線を巡らせた榎本のために、ほんの少し傾けた傘で小さな壁を作れば、あっという間に二人だけの空間が出来上がる。屋根を無くした片側がさらさらと降る雨に濡れる。それでも榎本は、土方から距離を取ることはなかった。仲直りの意味も含まれたことを、ちゃんと気付いていたから。
太陽が照らした傘に、二つの影が重なった。

 

キミの機嫌と秋の空

恋人はサンタクロース


世間が今年最後で最高の浮かれ気分に浸る12月下旬。
インターネットを覗けば、この時期多忙なあの人の足取りが分かるようになっていたり、今現在どこを通過しているだとかの情報を覗けてしまったりと、便利な世の中になったと感心するべきか、ストーカー行為をしている気分になるべきか、些か複雑な心持にさせられる。忙しいと嘆く人もいるけれど、大半はこの独特の雰囲気を楽しんでいて、人も空気も全てが浮かれていた。そして現在バスタブで楽し気に一人リサイタルを開催中の彼もまた、もれなく地に足が着いていない様子なのだ。

「ご機嫌、だよな…」

食後のコーヒーを嗜みながら土方は、鼻歌混じりに風呂場へ向かって行った榎本の横顔を思い出し、今も奥から届く鼻歌を聞き覚えず頬を緩めた。今日は朝からあの笑みが消えたことがない。
昨夜から仕込みをしていただけの甲斐はあったテーブルいっぱいに並ばせた料理にも素直に美味しいと溢しながら、ほわりと嬉しそうな顔を見せてくれた彼が、今日は幾度となく幼く見えた。

「クリスマスだから、にしてはなんつーか…」

普段と様子の違う彼に、違和感とまではいかなくてもいつもと違う雰囲気を感じている。どことなく、子供っぽいのだ。常もそういう部分はあるけれど、それともまた違う。本当の意味で、子供っぽい。
仕草一つにしても、笑顔一つにしても、やけに幼い。榎本自身は意図しているつもりはないようだが、無意識だとしても少し、異常とも思えてしまう。現実主義の自分には理解の出来ない範疇なのかと、冷めかけたコーヒーも手伝って眉間に小さな皺を刻みながら土方は、浴室の方からやはり浮かれた足音が近付いてくる音を拾った。

「あれ、まだここに居たの?湯冷めするよ?」

「んぁ?あぁ…」

「ん…?」

よく温まってきたのだろう、赤く色付いた頬がますます今の榎本の幼さを浮き彫りにしている。髪は早々に乾かしてきたのか、ふわりと散る毛先が榎本の心情を表しているようだ。思ってしまったら口許が笑みに歪んでしまいそうになり、土方は残りを飲み干すふりでカップに口付けそこを隠した。

「ビールな。いま出すから、ちょっと待て」

「いや、今日はいいよ。じゃあ先に寝るね」

「はっ?もう寝んのかぁ!アンタが風呂上がりの一杯も呑まねぇで?!」

ソファーから腰を上げた土方は大袈裟な程の声を上げた。だって榎本が至福の時と言っても過言では無い風呂上がりの一杯を呑まずに寝ると言うのだ。確かに本日はクリスマスだからと、食前食後とお気に入りのワインやシャンパンを空けていた榎本だが、出す酒を呑まないということがあるのか。土方は驚愕しないではいられない。

「当たり前じゃん!早く寝ないと来てくんないかもよ。通り過ぎられても嫌だし!」

「そ……そう、だな…」

じゃあおやすみ、と早々に就寝を告げ榎本は、パタパタとスリッパを鳴らしながら寝室への道をスキップ交じりに上がっていった。

「マジ…なんだよな、アレ?」

覚えず引き攣った声が、静かになったリビングに落ちる。

一週間ほど前のことだ。穿くには明らかに大きすぎる靴下を一組分、榎本が家に持って帰ってきた。それはなんだと尋ねてみれば、枕元に吊るすに決まっているだろうとさも可笑しなことを問うてくれると言った榎本の表情を、土方は今でも容易に手元に返せる。
まさかと思ってもう一度その意味を問えば、──サンタさんにプレゼント入れてもらうために決まってんじゃん。と所謂ドヤ顔で言い切られる始末。
まさかこんな間近に希少な純粋種がいるとは思いもしなかった事実に、それを否定することも出来ず土方は、引き攣りそうになりながらもなんとか笑みを作り、そうだな、楽しみだな、とだけ返すことに成功した。

「俺なんて結構早かったけどなぁ」

思えば面白くない子供だった。現実主義はその頃からだったし、子供らしい夢を見ることも少なかったように思う。それに比べて榎本はどうだ。成人を当に過ぎた今も尚サンタクロースを信じ、ご丁寧に枕元に大きな靴下を下げ翌朝を期待と共に待ちながら眠りに就いている。おそらく去年までは、彼の身近にサンタクロース代理がいたのだろう。

しかし今年は、いない。もし明日の朝、あの靴下にプレゼントが入っていなかったら彼はどれほどガッカリするだろうか。良い子のところにしか訪れないと言われているサンタクロースが自分のところに来なかったのは、よもや、自分のような男と、同居ならまだしも、同棲を始めたから等と思われ、うっかり逆恨みでもされたら堪ったものじゃない。いや、もうこの歳で良い子と言っていい定義に納まるかどうかなど土方はそこまで突っ込みが及ばなかった。
何故なら、

「…くそ…、俺も大概甘くなったもんだぜ」

とりあえずはもう一杯、少し薄めに淹れたコーヒーでも飲んで、
しっかりベットが温まった頃にでも寝室へ行こうと、土方は冷えたカップを手にキッチンへ向かった。







「ねぇ!起きて、起きてってば!土方くんっ」

翌朝、遠慮の欠片もなく豪快に肩を揺すられ土方は、否応なく心地良い夢路から現実へと引き戻された。少し興奮気味の声は尚も上から降り注ぎ、重い瞼をなんとか押し上げれば、カーテンの隙間から零れる朝日よりも眩しく見える榎本の笑顔がそこにあった。

「…んー?」

「見て!今年もサンタさん、私んとこに来た!」

「……んぁ?」

まだ焦点も合わない視線の先に、綺麗にラッピングされた贈り物が差し出される。靴下の中に入ってたんだとはしゃぐ榎本は本当に嬉しそうで、そこに偽りはない。本当にサンタクロースの存在を信じているのだと、その笑顔が土方に伝えてくる。それを見上げながら土方は、こっそり胸を撫で下ろした。いま榎本が手にして喜んでいるプレゼントは、新しいサンタクロース代理からのものだ。
昨夜ベッドに入る前、榎本が起きないかドキドキしながら忍ばせた。
明日の朝どんな笑顔を見せるだろうかと違うドキドキも抱きながら眠った代理は今、とても暖かな気持ちで満たされている。確かに、この日、この笑顔に出逢えるなら、サンタクロース代理もプレゼントの配布を請け負い続けるか。と納得した。

「良かったな」

「うん!あ、君は?」

「あ?」

「君は何貰ったの?」

「は、俺…?」

「見てみなよ!」

早く早くと急かされ体を起こさせられた土方は、榎本から顔を背けて焦った。取り敢えず、寝起きの一服にベットサイドから煙草を取って口に挿し業を煮やす。
しまった。自分の分など考えもしなかったのだから、煙草の次に手を伸ばしたこの靴下の中に何かが入っているはずがない。けれど背後からは、そこに土方の分も入っていると信じて疑わない榎本の声が今か今かと期待を飛ばしている。仕方ない。自分は良い子の枠から弾かれたのだと説明しよう。思って横に下げられた靴下を取り土方は、胡坐を組む足の上で大雑把にひっくり返した。


「え…」

土方の驚きの声は、外からの雀の囀ずりに重なった。危うくベットの上に煙草の灰が落ちそうになり慌てて手に持ち直す。
なんと、あるはずのない贈り物が土方のソコにも入っていたのだ。


「マジでか……?」

「うん、来たね!」

私も君も良い子だもんね、と榎本の声が弾む。徐に見上げた顔はやはり幼さに満ちていて、白い光の中でやけに眩しく見えた。
 

恋人はサンタクロース
bottom of page