ARDILA
I don't just love her.
まだ日が完全に出ないうちに目が覚めた。
真ん前にはタロさんの顔。寝顔もなかなかの男前だ。しかしそれよりも気になったのは尿意だ。俺は布団、そしてタロさんの腕の中にいる。まぁ心地いいわけだが、しかし尿意。厠へ行きたいが、この暖かい腕と布団の中から出るのは嫌だった。今が一番幸せな時だ。これをぶち壊そうとする尿意がとても憎々しい。
きっと昨日がぶ飲みした酒が外に出たがっているのだ。つまり自業自得なわけだが、しかし出たくない。しかし尿意。くそう。俺の体と想いの矛盾も知らずにすうすう寝息を立てているタロさんがなんかムカついてペシペシ頬を叩く。
目を少し開けたが、なにと文句を言いながらまた目を閉じた。この尿意を伝えると、奴は俺の上に乗っていた腕を離し俺を解放した。
ほほう行ってこいと。いやいやでもさ。
「布団から出たくない」
「知らない。早く行けば」
ごろりと寝返り打ってタロさんは俺に背を向ける。
うわ。冷てぇ。さっきまで俺を包んでいたじゃないか。なのに、再びすうすう寝始めやがるもんだから着流しをぐいぐい引っ張る。
「タロさんも起きろ。一人だけ布団の中はズルい」
「んー」
「起きろってば」
「んー…」
「タロさん」
「ん…」
「タロさーん」
「………」
「…寝たなコノヤロー」
そう言えば、土方くんなども寝起きが悪いようだが、ここに居る中性的な色男はどれも寝起きが悪い。美男はそんなモノなのだろうか。いや、釜さんはそうでもないな。伊庭くんや春日さんはどうなんだろ…って、そんな事よりも今は己の事だ。とにかくズルい。布団から出て厠に行くめんどくささ。冷えた室内。そんな中で、タロさんは布団の中でぬくぬくだと?ズルい。しかしぐだぐだ言っている暇もない。迫り来る尿意。くそ。
仕方なく布団から出たものの、やっぱり腹立つ。もうムカついて仕方無くてタロさんの足元に掛かってる布団を捲って部屋を出た。
足冷えろバーカ。
厠に行って、戻って来るとタロさんは足ごとすっぽり布団の中に入っていた。チッ。冷えたら良かったのに。
わざとらしく布団を思いきり捲ってまた寝転ぶ。タロさんは猫みたいに体を丸めて、ゆっくり目を開けた。
「寒。」
「うん」
「行ってきた?」
「うん」
「おかえり」
「…うん」
またタロさんは目を瞑る。捲った布団を肩までしっかり二人が被るように戻した。腕、って言うとごそごそして俺はまたタロさんの腕に包まれて、今度こそ寝た
残暑見舞いに
暦の上でも感覚としても、もう秋のはずなのに、流れ落ちる汗は過ぎてくれない夏を思わせる。いや、今年は例年よりも気温が高い気がする。ただ、いつの間にか蝉の声がもうしないだけで暑さだけが変わらずある。今は部屋中にムンムンとした熱気が籠っている。まるであの北欧にあると言うサウナのようだ。
だから最近は、日中は部屋の窓を開けっ放しているのだが、今日に至っては全く風が入ってこない。入ってくるのは東京と名を変えガラリと景色も変わりつつある都心の音。馬車の行き交う歯車の音や、洋語交じりな喧騒。因みに家族は揃って買い物へ出掛けていて室内は物静かで暑いだけの空間だ。
そんなわけで誰にも文句を言われる事も無く、浴衣という寝巻同然の格好で縁側に寝そべっている。いや、最初はちゃんとベッドでバテていたのだが、こっちのほうが涼しくて気持ちいいだろうと気付いた。
風が無いのだから窓ガラスを開けたくらいじゃ暑さは回避出来ない。洋間はアレだ。もう温室だ。
しかし暑い。やっぱりどう足掻いても暑い。寝てても立ってても暑い。動いてても止まってても、やはり暑い。
「あぁ~あーつーいー…」
暑さというのは思考能力を低下させる力がある。当たり前だが、独りで呟いてみたところで辺りの温度は変わらなかった。いや、待てよ。暑いって言うから暑くなるんじゃないのか?ここはひとつ気の持ちようで、涼しいと思い込んだほうがいいんじゃないだろうか?
バ○ァリンのもう半分は思い込みで出来てるって言うし、そう考えると大事なことなのかもしれない。よし、それなら…
「涼しいー!超涼しいー!縁側めっちゃ涼しいぃぃぃっ!」
「いや、暑いでしょう?まさか、ボケた…?」
「むぉっ!?」
突然、勝手口から声が聞こえて飛び起きた。
やっぱり思考が鈍っていたようで、マズイご近所さんに聞かれたのか!?と暑さに加えて嫌な汗まで噴き出したが、木戸を開けて庭の脇に佇むのは、なんとタロさんだ。あぁ東京に居たのか。久し振りだ。
その相変わらず若々しい顔とか、僕を憐れんだような蔑んでるような目とか、失礼極まりない物言いとか。久し振りだ。
そして、僕はその姿を見て仕舞いには愕然とした。
庭に入ってきたタロさんは、普段着にしては高そうな背広の上下を一糸も着崩さず頭にはカンカン帽…と、仕事着…いや、仕事着にしてもベストになるとかすれば良い訳で、とにかくこの御天道様の下を歩くには過酷そうな出立ちだったのだ。更に恐ろしいのは、そんな季節感もクソもない服を着ていながら汗のひとつもかいていない、いかにも爽やかなその顔である。
周囲の状況見えへんのか?いやいや、日差しとか体感温度とか汗腺とか季節感とか、空気読むとか、え、なに、そういうのないんか?皆無ですか?この男の体は一体どうなっているんですか?
見ただけで震えが起こった。別に涼しくなったからではない。蜃気楼のように揺らめく視界の中で堂々と仁王立ちするその男が、もう腹の底から気持ち悪く思えたからだ。いや、ある意味その存在自体が寒く感じられたというのもあるが。あまりの暑苦しさに本気で目眩が起きそうになったが、必死で頭を奮い立たせ。そして考えるよりも先にそのギュッとネクタイで閉められた胸元に思いっきり掴みかかっていた。
「おまっ…!脱げ!今すぐその服を脱ぎ去れー!!」
「え?そんな、久々に逢っていきなり?まだ明るいですよ。アナタいつからそんな“昼下り団地妻の淫行”みたいな事を始めたんですか。どこぞのAVですか」
「アホか!?そういう意味ちゃうし!ってか団地ってなんなんっ!?見てるだけで暑苦しいンじゃボケェえぇっ!!はよさっさと脱げ!」
「そう、そんなに寂しかったとは思いも寄りませんで。まぁ、そっちがその気なら昼間だろうが明け方だろうが外だろうが構わないけど」
「何の話だこのドヘンタイ!!ていうか人の話を聞けぇぇぇぇッ!」
「――え、体感温度?あぁ、あんまり暑さは苦にならないかもしれない。ほら、寒さの方が過酷だって知ってるし、東京が暑いのは今に始まったモノでも無いし。このくらいの気温だったら別にそんなに不快では無くなったかな。でも、過剰に動けば汗はかくよ。例えば、夜のベッドで貴方を組み敷いてるときとk」
あれから数分後、炎天下に一週間放置した生物の如く腐りきった思考回路をフル回転させているタロさんの服を無理矢理引っぺがし、
以前に泊まりに来た荒井さんが忘れていった着流しを強制的に押し付けた。真に遺憾ではあるが、僕のだと寸足らずだし。荒井さんのだが、黒い背広を着られているよりは遥かに視覚的にはマシだ。あのままでは僕が熱中症になってしまう。
そして、2人で縁側で並びながら涼みつつ、いらん自己紹介を終えたタロさんはさも珍しそうに貸した着流しの襟元を摘み。やや顔を埋めるように下へ向けて、無礼にもくんくんと匂いを嗅いだ。勿論洗ってあるぞコラ。
「荒井さん、泊まりに来たんですか」
「あぁ、だいぶ前にだよ。ここ暫くは忙しくてそれも置きっぱなしでな。釜さんの方がよく来るんやけど…」
「これ、大鳥さん家の匂いがする」
「裸に剥いて表に転がされたいンか」
一度腐ってしまった生物はもう鮮度を取り戻せないらしい。手遅れである。残念というほかない。
「あ、そんなことより、手土産持ってきたんだ。食べますか?」
僕の匂いを「そんなこと」で片付けるとは何事だ!と若干矛盾した文句が出掛かったが、『お土産』『食べる』のワードにぴくりと耳が反応する。
「なに?食い物?悪いなー、わざわざ気ィ遣わなくていいんだぞー」
「嬉しそうですね。腹減ってたんですか?」
と言うとタロさんは背後に無造作に放置されていた風呂敷を僕の前に置いた。食べ物が入っていると分かってるなら、しかもそれが僕への手土産ならもう少し丁寧に扱って欲しいものである。いや、そんな事より風呂敷で覆われた食い物とやらは、人の頭より二回りほど大きな球体で。そのシルエットからして、ソイツは正しく…っ!
「八百屋のオヤジが今年はコレで最後だとか畳み掛けて来て、小振りなのが安くなってたん、」
「スイカかぁーーっ!!」
「…えぇ、うん。そう。ご家族でどうぞ」
緑色の球体に黒いストライプ模様を刻む水菓子は、暑い時季にその存在を確固たるものとしている代物。暑さで茹だる身体には水分を大いに含むその真っ赤な果実は、さながらオアシスに匹敵する。
「貴方そんなにスイカ好きだったっけ?」
「コレをいま物凄く体が欲していたんだよ!まだ残ってたのかぁ!よくぞ買って来てくれたなタロさんっ」
取り敢えず手当たり次第に褒めちぎりながら、さっそく厨から包丁と皿と塩を持ってきた。冷した方が良いかとも思ったが、残暑に苛まれる体は今直ぐにでもそのスイカの水分とほんの少しの塩分を望んでいるのだ。
さっそく割って中を見てみると、如何にも甘そうな瑞々しい鮮やかな赤が眩しい。そして三角に切り分けた先端を遠慮なくかじった瞬間、口の中で楽園が広がった。シャクっと涼しげな音と甘味が身体に浸透してくる。おいしい。そこそこ冷たくて、甘くて、おいしい!!
思わず顔が綻んでしまった。頬が緩んでいるのが自分でもわかる。でもだめだ。止められない。この暑さにスイカという脅威の前では、太刀打ちなんて出来やしない。
「うまー…生き返る~」
ぽろりと零すと、クスッと小さく笑う声が聴こえた。
「おいしい?」
素直に頷く。今は嘘を吐く必要なんてまったくない。なんという幸福!こんなにもたくさんの幸せを持ってきてくれるとは、この男は季節外れのサンタさんか。
「甘いよコレ。また来年までコレが食えなくなるとは実に惜しいな」
「いや、そんなお礼なんて。ちょっとこの辺に口付けしてくれればそれで」
しかし目の前で自分の唇を指差しながらデレッと顔を崩した男は、スイカを持って来てくれただけのただのタロさんだった。サンタさんはそんなアホな見返りを要求したりしないからな。と言うか先程から話が噛み合っていないと思うのは僕だけか。まぁ本気でそんな見返りを求めている訳でも無いだろうタロさんは、喜んで貰えたなら嬉しい、などと微笑んだ。
「タロさんも食えば?」
「いいや。もう家の人の分が無くなりそうだし」
タロさんはニコニコ笑顔を崩さずに僕を見ている。なんて親切だ。コレは何か裏でもあるのか…なんて、いやいや、タロさんはそこまで性悪じゃあるまい。なんてったって気を利かせてスイカを持ってくる男だ。
せっかくこの暑い中で(本人には苦痛じゃないらしいが)持って来てくれたのだ。無償で受け取るのもな。と片隅で思いながら、塩をちょいっと乗せたスイカを一口かじって口に含んだ
そしてなんの前触れもなく奴の胸元をガシッと掴んで、強引に引き寄せて――。
ちゅ、と唇を重ねた。なんて、そんな可愛い音がするわけもなく、勢い余って前歯同士がぶつかりガチンと痛々しい音を上げたが(実際痛かったが)構わず舌を相手の口の中にねじ込んで開かせる。
そして含んでいたスイカをそのまま流し込んでやった
「…っ!」
タロさんは驚いたようにピクッと僅かに肩を揺らしたが、少しの間咥内でスイカを遊ばせた後ごくんと飲み干す。それを音で確認してからそっと唇を離した。目と鼻の先5cmにいるタロさんは大きく目を見開いている。
「なに?すごい積極的」
「お礼にお裾分け。さっきタロさんが言っただろ…」
あぁ恥ずかしい。してしまってからなんだかとっても恥ずかしいぞオイ。でも離れて見たタロさんの顔が物凄く嬉しそうに緩んでいて、その頬がほんのりと赤く染まっているのを見たとき、なんだかとっても満足したような気分になった。
「うまいし。甘い」
「ん」
「ねぇ、」
「ん?」
呼ばれて目を見た途端、今度は向こうからこめかみに唇が触れて。
そこから重なり、舌が進入してくる。スイカの名残と自分の額に滲んだ汗のせいか、それはちょっとだけ甘い気がした。
その後、日が傾いて始めて今年一番の秋虫の小さな声が聞こえて来て、本当に夏が終わった事を実感させられた。
aphrodisiac
「なぁ、タロさん…ソレ、何?」
男同士とは、男女と少々勝手が違うし。何かと面倒で、色々と特殊で、とても酔狂で、自然の理に反した事この上無いのだが、それ故に、それでも相手を想う精神の強さが、要になるのだと僕は思う。
だから、年下で上司で僕のその念友である男がいつもの潤滑油では無く。見慣れ無い小瓶を手にして寝台に上がって来た事が、些か気にかかる。
寝台で上半身だけ起こして見ている僕を余所に、相手は自らの手に小瓶をひっくり返し。何やらトロトロした液体が細長い指をした掌を伝う
「これは、滋養強壮や性機能の持続力及び強化促進作用のある、」
「ちょっ、待て!!」
今にも僕の尻にその液体を塗り込ませようと伸びて来た腕を咄嗟に掴んだ。男はまるで心外だとでも言う不満気な面持ちで僕を見る
「ソレ、媚薬だろ!?」
「ええ、間欠に言えば」
クスリ、鼻に掛かった媚笑。
ああ、コイツ…本気か。
そんなモノ、興味本意で使いたいなら自分で試せばいいだろ。こんなモノ使わずとも既に身を赦している筈の僕の意思を無視したいのか。
とか、言いたい野次も罵倒も山程あるが
「依存性や副作用は無いので、ご心配無く」
言うや否や、荒く唇を塞がれ。
強引に舌で咥内を暴れながら、早々と胎に指が入って来た
「ンン゙……んぅ、ッ!」
ヌルヌルな感触は何度経験しようが慣れる事が無く。そして、いつもより水音が派手な気がする。
その耳に響く音が次第に遠退いていく間際
明日の朝は起きられるだろうか。
本多に手荒く叩き起こされては堪ったモノじゃないな
とか、そんな別な男の事を考える僕は、薄情者だろうか
C'est la que git le lievre.
松平は本の序章を読んでから、パラパラ頁を捲って結末を読んだ。
何してんのお前、大鳥が、松平の行動を不思議に思って訊ねると、松平は言った
結末を読む前に死んでしまうといけないからと。
将来に希望を見い出さない言葉に大鳥は不愉快になった。
それが何もない平凡な生活の内に言われたのなら、そうかいと一言返すだけだろうが、
戦の面でそう言われてしまったら、こいつは死ぬ気なのかと腹が立った。
死の局面にいるのだから、松平がそう言うのも仕方がないが、なんだか面白くなかった。
「結末よりも、過程が大事だろ」
「でも、まとわり付くのはいつも結果や結末だ」
それが現実でも作り話でも。松平は言ってまた本の最後を読み始めた。
ああそう別にいいけどねと大鳥はベットに寝転んだ。
「人生は必ず死で終わる。俺もお前もよく知ってるだろ。お前はそれに満足してるのか?それじゃ意味ない。結末が決まっている中でも、どうやって生きるかが重要なのに」
丸まる大鳥の背中を、松平はじっと見つめた。
C'est la que git le lievre.
(つまり問題はそこ)