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ラヴィー
 

身体を重ねるのはどちらかと言えば好きだ。
そりゃあ気持ちはいいし、絶頂を迎えた瞬間に脳天に響くあの快感は、他の何も考えなくていい程癖になるものがある。俺達が身体を重ねるようになったきっかけなんてほんの些細な事だった。
気持ちよさは勿論だけど、確かな感情がそこにはあった。

ただ、いくらヤリたい盛りの俺達だって、時と場所は弁るべきだってンだ。


「おやすみなさい、先生」

「おやすみ、宗次郎」

家事を一段落させ、睡魔に負けて大きな瞳を半分程閉じた宗次郎は、俺と勝っちゃんとで晩酌していた居間に少し顔を出すと部屋へ戻っていった。
賑やかで明るい、その存在がまるで太陽の様な宗次郎が寝ると途端に静かになった部屋で二人、勝っちゃんは銚子を頭元に置いて膝掛けを枕に、最近夢中な三國志を読書中。俺は畳に座り込み、本日の散薬の売り上げを計算しながら帳簿をパラパラと眺めている。それから、宗次郎が部屋を出ていってから四半時は経っただろう


「トシ」

不意に聞こえた自分の名前を呼ぶ声に帳簿から視線を上げると、
徳利を乗せる膳を挟んで、ひょっこり顔を上げた勝っちゃんと目があった。

「ん?」

「そろそろいくか」

ニヤリと口の端を上げて笑う勝っちゃんに、身体の奥底が少し熱くなるのが分かった。

「あぁ、そうだな」

毎日という訳ではないが俺達は身体を重ねている。
勝っちゃんに強引に押し切られるように俺が受け身になったのだが、さすがに何回も何回も続けては出来ないし、この家には可愛い弟分も勝っちゃんの義理の親も暮らしているのだ。身体を重ねる際には細心の注意を払っている。

それに勝っちゃんの部屋は、宗次郎が居る部屋と襖を一枚隔てた隣。勝っちゃんが布団を敷いている間に、そっと宗次郎の部屋を覗いてみるとぐっすり眠っているようだ。静かで規則正しい寝息が聞こえたのを確認して、俺は再び静かに襖を閉めた。パタンと鳴った直後、勝っちゃんが待ちきれなかったとばかりに、俺の身体を布団の上に押し倒した。

「うわっ、待てって!んながっつくな…っ」

もちろん小声だが勝っちゃんにハッキリ聞こえるように言っている。
しかしあっさり無視されて、ちゅっちゅと音を立てながら首筋に唇を落としてくる。

「んっ…勝っちゃ…っ!」

「無理、早くトシの声聞きてぇ」

息遣いは荒く、早々と着流しの下の素肌に熱い手が入り込んでくる。するすると素肌を撫で上げ、胸の突起を探り当てた。

「っ…バカ、…落ち着けって、この」

「はいはい、静かにな」

意地悪くニヤリと笑う勝っちゃん。この二重人格め。
大先生や宗次郎や他人が今のこの人の顔を見たら同一人物かと思うだろうか。外面が良いって言うんだろうなこういうの。まあそれを見て自分は毎回喜んでるのだけれど。
そして、勝っちゃんに両手でそれぞれ二つの突起を摘んだり、親指でぐりぐりと刺激を与えられると自分の身体は面白いくらいに跳ねる。大きな声を出すと宗次郎が起きてしまうかもしれない。その危機感もコイツは楽しんでいる節がある。必死で声を抑えようとする俺を尻目に、勝っちゃんはうっかり殴り飛ばしたくなるほど物凄く楽しそうだ。

いつの間にか勝っちゃんは、俺の帯に引っ掛かっているだけの着物を強引に脱がしにかかった。流石にそれはマズイと俺は慌てて制止する。

「バカ!脱がすなって!」

ぺしっと頭を叩けば、相手は一度顔を上げ、如何にも面白くないように口を尖らせた。

「なんでいつも服脱がねぇんだよ」

「宗次郎が起きたら何て言うんだよ!絶対に脱がすなってンだろうが」

「…」

襖に鍵がついているわけじゃないし。宗次郎が起きない保証は無い。もしもの為に、俺はいつも着物を着たまましているわけだ。
一緒に寝ているくらいなら、適当に言い訳が出来ると思って。なのに勝っちゃんは、俺のそんな些細な気遣いを無下にする。

「宗次郎ももう十過ぎだぞ?いくらなんでも、粋事の意味くらい分かるだろ」

「そーいう問題じゃねぇよ!宗次郎にバレたら大変だっつってんだバカ!それに、宗次郎に粋事なんざまだ早ぇだろうが」

「…トシ、お前なぁ…」

呆れた様子で俺を見下ろす勝っちゃん。

「少し宗次郎に過保護すぎやしねぇか?」

「…はぁ?」

思わぬ事を言われて、それがあながち間違いじゃないと自覚もしているからか、俺はうっかり腹が立った。

「アンタにだきャあ言われたくねぇ」

「…ぁあ?」

過保護…というかブラコンなのはお前の方だろうと、俺はずっと今まで堪えていた感情をいよいよ吐き出してしまった。うっかり。

「この前だって、鰯の頭、アンタ変わりに食ってやってただろ!?一番栄養の有る所を食わせてやらねぇでどうすんだ!贅沢させるな!」

「あれは宗次郎が気持ち悪くて嫌だっつーからつい…!なんだよ、お前ぇだって外で菓子ばっか食わせやがって!」

「それは、儲かった時に限ってアイツがたかるから…」

もう甘い時間どころじゃない。一度言い出したら切りが無く。知らず知らず大声で口論していると、スッと音を立てて部屋の襖が開かれた。

「「!!!」」

ぎょっと目を見開きながら訪問者に視線をやると、いかにも眠そうに目を擦りながらぼんやりと立つ宗次郎が、当然そこにいた。


「そ、宗次…?」

「起きちまったのか…?」

「ん~…なに喧嘩してんですか?うるさい…」

薄闇に包まれていた部屋に宗次郎が持ってた明かりが灯り、布団の上で重なる俺達の姿が浮かび上がる。

俺は着物を死守していたが、しかし、よくよく考えれば勝っちゃんはどうだ。着流しは腰元で帯に引っ掛かっかっているが、上半身は露になっている。ああホントに俺はうっかりしていたようだ。これじゃ俺が着物を着ていても意味がねぇ。まるっきり半裸の男に押し倒されている男の図じゃねぇか。じっとそんな構図の俺達に目を凝らす宗次郎に、俺も勝っちゃんも滝の如く冷や汗が流れる。

「…二人共、なにしてんですか?」

「え…」


「ああ…プロレスごっこ…?」


勝っちゃんの口からポロリと出た言葉はあまりにベタな言い訳だった。いやいや、プロレスってオイ。ソコはせめて相撲だろう。相撲にしとけよ。いや夜中に相撲を取ってるのも不自然な話だが。もうダメだ。これダメだろ。俺は愕然として、さすがの宗次郎もこの状態では俺らの関係に気付くか、気付かなくても不信感を抱くだろうと諦めて。どーすんだコレと溜め息をついた矢先、

「私もやる」

「「…え?」」

「なんで二人だけ?私も、そのプロレス?やりたい!」

ええぇ!!?なんだコレ。なんなんだコイツ。眠気などすっかり醒めたかのような笑顔で布団に飛び付いて来た宗次郎。俺と勝っちゃんの間に割って入って来て、きゃいきゃいと手足を動かし無邪気に騒ぐのを暫く唖然と見つめていたが、それから勝っちゃんと目が合って、どちらかともなく笑いが零れていた。


「宗次郎、今日はもう遅いからまた明日な?」

宗次郎の子供特有な柔い黒髪を撫でてやる勝っちゃん

「え~!」

「明日思う存分遊んでやるから、な?」

「あぁ、うん。そうすっか宗次。だからもう寝ろ」

取り敢えず俺は勝っちゃんに倣って、拗ねる宗次郎を宥めておく。
すると宗次郎は、はい。と納得して幼さ満天な笑顔を浮かべ。それを勝っちゃんは、いい子だ、と褒める。頭を撫でられ嬉しそうな照れ笑いを溢す宗次郎にデレデレしている勝っちゃんの姿を見れば、やっぱり勝っちゃんのほうが過保護だと確信した。ま、俺もこの人までとはいかないが宗次郎には甘い。宗次郎が笑ってりゃ、それで何もかもいいような気がするわけで。ヤりたい盛りな欲も一瞬で吹き飛んでしまうわけだから。


「じゃあ、今日はここで三人で寝るか」

勝っちゃんの提案に宗次郎は心底嬉しそうに笑い。俺と勝っちゃんの間に小さな体を押し込めて来た。男三人で眠るのに布団一枚はかなり狭いが、たまにはいいか。体勢を整えつつ宗次郎の肩まで布団を綺麗に引き上げると、すぐさまくうくうと寝息が聞こえ始める。さっきのは寝惚けてただけか?寝付き良すぎるだろ。近頃は口達者で生意気だと思う所も増えてきたが、寝ている時はまだまだ赤子のようで可愛げもある。その寝顔を眺めていると、ふと、視線を感じて顔を上げた。勝っちゃんが笑みを浮かべながら俺を見ていた。くすりと笑うと、宗次郎の頭上で触れ合うだけの口づけをした。



「おやすみ、トシ」

「おやすみ、勝っちゃん」

 

ラヴィー

ALTRUISM

一枚の手紙に軽く目を通しただけでグシャと握り潰したトシは、俺の視線に気づくと舌打ちを一つした。どこか外から聞こえてくる打ち水を撒く涼しげな音に、子供の楽しげな声は、今からの話にはとても不釣り合いな音だった。

「また別れたのか」

「アンタに関係ねぇだろ」

「まだ一ヶ月も経ってないんじゃないか?」

わざとらしい溜息とともに、トシは紙屑となったそれを机に放り投げた。

「気が合わなかった。それが分かった以上、付き合い続けたって意味ねえし」

「オメェさ、人のこと、本気で好きになったことないだろ」

「きめえ」

机に頬杖をつき、気だるげな視線をこっちに投げかける。

「そーいうこと、マジな顔して言うなよ」

俳諧にでもなんの、と問う奴の安い笑みはもう見飽きた。

「寂しくねぇのか、こんなことばっかりしてよ」

「アンタには関係ねぇっつってンだろ」

「かわいそうなんだよ」

「同情すんのか、俺に」

「違う、オメェと付き合った子たちが可哀想だ」

その言葉に、ぴくりと奴の指先が反応した。

「彼女、泣いてたぞ」

一瞬、トシが目を丸くする。瞬きの後にはその表情は消えていたが、発した言葉の語尾は不自然に高かった。

「は、なんでオメェがそんなこと知ってんだよ」

「彼女が俺のところに泣きついてきたんだ」

がたっと大げさな音ともにトシの頬杖が崩れた。 頬をすべった手のひらは握り拳になり、今度は驚愕の表情を隠すこともせず、揺れる瞳が俺を捉え た。

「アンタのところに?」

「あぁ、そのときにはもう目が真っ赤だった」

「なんであいつが道場を知ってんだ」

「お前が居るかもって、わざわざココを探して来たらしい」

「ヤったのか」

なんて不躾な質問だ。眉をひそめる俺に、トシは知ってか知らずか詰め寄せる。

「お前なぁ…」

「でも泊まったんだろ、アイツ」

「……彼女は少し酔ってたし、もう夜も遅かった」

「うわ、確信犯だよ」

彼女はひたすら泣いていた。本気で好きだったんだと、何を言われても未だどうしようもな いくらいコイツが好きなんだと涙を流し続け、最後には泣き疲れ眠った。

「そういう言い方やめろよ!お前は分からねぇのか?好きなひとに拒絶されるのって辛いんだよ。酒に走りたくなったり、誰かに相談したくもなるんだ。自分のこと好きでいてくれる人を、無下に扱うなよ」

思わず声を張り上げると、トシは途端におろおろと様子を変えた。

「な、なに怒ってんだよ」

「怒るに決まってるだろ」

「意味わかんねえ、なんだよ勝っちゃん、アイツに惚れた?」

「誰がそんな話をしたんだ。オメェって奴ぁ本当に」

だめだ話にならない。自分が興奮し てしまっているのも、トシがそれに戸惑っているのもわかった。
一旦時間を置こうと背を向け足を進めると、トシが立ち上がり俺の腕を掴んだ。その時、ばしゃんとまた外から水音がした。

「おい、待てよ。怒んなよ、謝るから」

「俺に謝ってどうする」

「わかった、ならまたアイツと付き合えばいいんだろ?」

呆れた。 掴まれた手を振り払い部屋を出た。後ろからかけられる声も聞こえないふりをして歩き続ける。このまま消えちまおうと思ったのに、待ての声が震えて聞こえてしまい、ぎょっとして振り返った。

「おま、なに泣いてんだよ」

「泣いてねえし」

「泣きそうだ」

慌てて駆け寄り頬に触れると「触んな」とかぶりを振られた。
先ほどまで俺の腕を掴んでいたのは誰だよ。

「ほんと、勝っちゃんさ、なんだよ。女のことばっか庇って。泊めるとか、だめだろ。アンタ誰にでも優しすぎんだよ。じゃなくて、俺が泊まるって言ったら面倒くさそうな顔するくせに、 何なんだよ」

だってコイツ、朝起きないし、稽古はしねぇし、世話してやっても家事も料理も上手なくせにぜんぶ宗次郎にさせようとするし、 泊まるとなったら住み着く勢いで居座るし、そのくせ帰るときは何も言わずにいなくなるし、

「人のこと好きになったことないとか、俺には分かんねぇとか、んだよ。決めつけんなよ。なんにも知らねえくせに。俺だって、おれだってな、まじで、もう、くそ」

ぎりぎりのところを表面張力で保っていた涙がついにこぼれ落ち、ポロポロと赤い頬を流れてい く。

「自分のこと好きでいてくれるやつを、無下に扱うなよ」


あーあ、コイツは、都合がいいと叱るべきか、不器用すぎると涙を拭ってやるべきなのか。


 

ALTRUISM

願わくば、桜の頃に
 

四月に入ってまだ片手でも数える程しか経っていないためうっすら春の匂いを含ませる風の生暖かさが、妙に不快に感じた。縁側に佇む自分の周囲を勝手に流れているそれを吸い込むと胸に何か詰まらせたような感覚が起こり、無性に掻き毟りたくなる。

走馬灯ってのは死に逝く奴が見るモノだと言うから、いま自分の脳裏に過るモノが走馬灯だとしたら、俺は、ここで死んじまっても構わない。と思っているのかもしれない。死を口にしているのは俺では無くて、目の前に居る男であり。俺は黙ってそれを聞きながら、この男の死を突き付けられているだけだ。そして頭の中で様々な考えと感情が入り乱れ、それと同時に正しく走馬灯の如く、ふと思い出した。目の前の男が、家族や友達とも違う、特別な存在になった時の事を。



それは、十を過ぎたばかりの俺が江戸へ奉公に行った事からだ。

ただ、俺は直ぐそこを脱け出し。夜通し甲州街道を歩き続け、日野の実家に逃げ帰った。そして疲れ果てながら家に辿り着けば、待ち受けてたのは兄貴達の説教だ。当然ながら家族は俺を快く迎え入れてくれなかった。歩き疲れ千切れそうな足で正座をさせられる上から、頭ごなしに怒鳴り付けられるのを坦々と堪え続け。そして理由を問われた時、俺は嘘をついた。
奉公先で番頭に言い寄られ手籠めにされ掛けたなど、子供ながらに持ち合わせていた男気で、そう簡単には人に、家族だからこそ尚、打ち明けられる筈も無く。番頭に叱られたから出てきてやったとでっち上げた。今思えば、典型的な悪餓鬼だった俺はソレまでにも、悪戯の為の、怒られない為の、些細な嘘を数々ついていただろうが、この時の嘘は生まれて始めて面白くも悲しくも悔しくも無い言い様の無い憤りがあった。
それから、周囲の俺に対する評価も散々で、我が儘だとか、根性も我慢も足りない。と言われ放題だった。そもそも、奉公こそが最もな真っ当の道だと言われるがまま行かされただけなのだから、俺の意思など始めから有りはしない。それを言うと、幾らガキで非力と言えど一度行ったモノを呆気なく放り出し、逃げ出したのが正しかったのかも分からない。だから嘘をついたうえでの説教も言われ放題なのも俺は反発しようと思わなかった。その時の俺は、世の中の事さえ録に知る由も無く、何が真っ当かなどと判断する術も無く、流石に十を過ぎたばかりでは家出しようにも転がり込ませてくれるような女も(まだ)居る筈もなく。不貞腐れる度に朝一で家を独り飛び出しては日がな一日を川の畔でただ過ごしていた。
そんな時だった。その頃にはまだ勝太と名乗っていた近藤さんが、俺に声を掛けて来たのは。


「よぉ、なにしてンだ?」

まず俺の目に映ったのは、少し使い古された竹刀。寝転ぶ俺を真横から覗き込んで来て、顔に対して少し大きめな口がニィと俺の真上で緩んだ。
何をしていると聞かれても、川原に寝転ぶ俺はどう見たって、何もしていない。いちいち昼寝してたと説明しろとでも言うのか、それとも何でここに居るのかを聞いているのか、元より愛想が良いわけでも、機嫌が良いわけでも無い俺は相手にするのが面倒で当然のように無視して目を綴じると、何故かその男も当然のように俺の横に座り込んだ。
別にソコが俺の土地でも、特等席でも無いが、なに勝手に座ってンだ。と薄く開いた横目で見遣ると、

「オメェ、朝からソコに居るよな。昨日も一昨日も、その前も」

近藤さんは川の向こう岸に向かって言った。その横顔が川の向こう岸の奥にある夕日で橙色一色に染められていた為、俺はいつの間にか日が暮れそうなのに気付いた。本当に俺は、何をする訳でも無く、何を思う訳でも無く、昨日も一昨日もその前も、ここに居た。と言う事は、それに気付いていたこの男もここを三日は通り続けているわけで、

「アンタは、何でここを通ってンだ?」

俺が聞くと、何がそんなに嬉しかったのか振り向いた満面に刻まれる笑みが深まり。そして八重歯を惜し気もなく剥き出して「稽古」と言った。

「毎日稽古してンだ。俺ァは武士に成るから」

その時から、この男の二言目と言えばそれだった。声変わりの途中で少し掠れた太い声で言い切るのが、自棄に俺の耳に残った。


「なぁ、オメェ家は?どこの子だ?」

一度口火を俺から切ったのが切っ掛けになったようで、近藤さんは矢次に質問を並べ始めるが、軽く人間不信に陥っていた俺にはもともと相手をする気も無かったし、身の上を話す義理も無いわけで。
なんだコイツ。俺に構わず早く行やがれ。と心の中で毒づきながら、
ただ黙って再び目を閉じ、寝返って近藤さんに背を向けた。それでも、無視を決め込んだ俺の空気を物ともせず、近藤さんにはそこを離れる気配は無かった。本当に嫌なら俺が何処でも行けばいいようなものだが、俺が最初に居た場所だからそれはなにか違う。近藤さんが諦めるか、俺が諦めるか、どちらが早く立ち上がるか根比べなら上等だ。と俺も妙な炎に駈られて寝たふりを続け、近藤さんも一人言(俺に話し掛けている訳だが俺が答えないため只の一人言)を勝手に続けて居たかと思えば、不意に、聞き捨てならない言葉が飛んできた

「おぃ、家とか名前くらい教えてくれよ。もしかして行くとこ無ぇのか?それならどうだ、俺に付いて来ないか?無愛想だが、オメェすげぇ美人だし。俺の嫁にならねぇか?」

どうやら俺は、ナンパをされているようだ。そして、なんか色んな大切な事をすっ飛ばして嫁に来いなどと縁談を持ち掛けられてるようだ。
唯でさえ男に言い寄られた事で嫌気が差していた上に、この男とは幾年も変わらないだろうに俺は声変わりもまだで、体格も二回りは違うようで、だからそう勘違いされ声を掛けられとあっては、流石に俺も、無視などしている余裕を無くし。起き上がり様に睨み付けた

「…なんだ、嫌か?俺が武士に成ったら武家の嫁さんだぞ?不満か?」

「当たり前ぇだ。ふざけんな」

「ふざけて言ったんじゃねぇよ。今日始めて声を掛けたが、オメェをいつもここで見掛けてて、気になってたのは本当だ」

「それがふざてるってンだ!テメェの目は節穴か!?俺ァは男だっ!!」


「………マジでか。」


呆気に取られるがまま目を丸くさせ固まる近藤さん。

どこか遠くからカラスの鳴き声が届いてくる。
不本意ながら俺は、一人の男の初恋ってやつを完膚無きまでに壊してしまったようだ。そして俺は、そんな事に同情する余地もなく、遂に立ち上がって着物の袖をたくし上げ。この頃はドスなんて有ったモノじゃないが、精一杯の見栄を訊かせて言った

「馬鹿にしてンのか!ヤル気なら相手にしてやらァ」

「わっ、分かった!分かったから落ち着け!喧嘩を売るつもりねぇから。勘違いした俺が悪かった。謝る」

あっさり引き下がった近藤さんは苦笑しつつ頭を下げたから、俺は一つ鼻を鳴らして、男だと強調するようドカッと胡座で座り直す。その様を近藤さんは何故かニコニコと眺めていて次は

「男なら尚に好都合だ。俺と一緒に、オメェも武士に成りゃあいい。なぁ?」

さも、名案だろ。と言うような口振りで、近藤さんは言い出した。もう驚きや怒りや呆れや何もかも通り越して、ホント、なにコイツ。もう面倒くせぇ。そろそろ腹減ったし帰ェってやろうかな。と俺が感嘆を漏らすと、
やっぱり、俺の放つ構うな空気を近藤さんはちっとも読んでくれず、

「俺と二人で武士になって、天下でも取ってやるンだよ」

「テメェ、歌舞伎の見すぎか?冗談なら余所で言え」

「冗談じゃねぇよ。俺ァは本気だ。絶対いつか一端の武士に成る」

武士に成る。と、言う文句が、俺の頭の中に浸透するよう入り込んで来た。さっきから何度も繰り返されるその言葉と、この男の俄に掠れた低い声は、女に間違われ、男に言い寄られるような俺にとって、とても魅力的に映り。羨ましく思えたと同時に、嫉妬にも似たような妬みも感じた。

「あっそう。勝手に成ってろ。俺の知ったこっちゃねぇや」

「お前ェは、武士に成りたいと思わないのか?」

どこか驚いたような、不思議そうな顔をして首を傾げられた。が、俺の方が不思議で成らない。何で、いま会ったばっかの俺なんかにそんな話をするんだろうか。しかも自分で女と間違えて声を掛けた奴に、今度は、男なら一緒に天下を取ってやろうなんざ、よっぽどの変わり者だ。そもそも俺の事を何も知らないクセに。

「成るとか成りたいとか、そんなんじゃねぇ。俺には無理だ」

「無理?なんでだよ。誰がそんなこと決めた」

「無理に決まってンだろ」

俯く俺の顔を覗き見る近藤さんは、俺が冷たくあしらう程度じゃ引き下がりそうも無く。ただじっと俺の顔を見詰め。どうしたって問い詰めるつもりのようで、俺が口を割らない間、少しの沈黙。川の水音だけが辺りに流れ。次第に妙に気まずくて、俺は遂に根負けして、口火を切った。

「俺ァ、何したって駄目な奴だから…」

「駄目な奴なのか?オメェが?」

そう聞いてくる近藤さんに俺は、何もかも洗いざらいぶち撒けてやる事にした。
例えかなり変な奴相手でも、この時ばかりは、言い様の無い憤りも蟠りも何もかも吐き出してしまいたかったのかもしれない。勿論、男に襲われたとまでは言わないが。奉公先を出てきた事も、それ故に、我慢も出来ない根性無しだと周囲から言われている事も、そして一人でこんな所で不貞腐れている事も、全て話した。半ば愚痴のようなそれを、近藤さんは黙ってただ聞き続け。俺が話し終った頃合いには日が川原の更に奥の畑の地平線に顔を半分沈めていた。

「俺ァは、情けねぇ奴だ。それが武士なんざ、成れるモノなら天と地がひっくり返ェるゼ」

仕舞いには、俺は冗談めいて言い捨てた。自棄になってでも虚栄を張らなければ、情けない。と自嘲など出来ない。ただ、軽く汗ばんだ掌で握る拳が見ては分からない程度に震えるのを押さえらるほど、俺は大人でも無く

「じぁな。俺ァは帰る」

途端に居心地が悪くなって、俺が立ち上がると、近藤さんは突然、ふっ、と吹き出し。そして事もあろうに、その場で腹を抱えて踞り。俺が軽く困惑した瞬間でけぇその口を開け河原に響く程の大笑いを始めた。

「っ、テメ、」

「ぃや、ワリィワリィ…っくく」

「喧嘩売ってンだろっ!!やっぱ喧嘩売りに来たンだろテメェっ!!」

「だから違う!売ってない!売ってねぇから買わなくていい!」

「うっせぇえ!馬鹿にしてンだろうがっ!?」

今度こそ完全に頭に血が昇り。胸ぐらを鷲掴み、押し倒してそのまま上に馬乗りに乗り上げ、俺が振り降ろした拳は男の顔の横でパシッと音を立てて手首が掴まれた事で簡単に止まった。

「お前ェ、ホント喧嘩っ早い奴だな。それだけ負けん気ある奴が叱られたくれぇで店から逃げ出すったァ、どうもおかしい」

「…─あ?」

俺の手首を掴んだまま近藤さんは身体を起こすから、俺は近藤さんの膝の上に乗っている状態で、やっぱり一回り以上は体格が違うのが気に食わない。放せと手首を振りほどこうとしたが、逃がさないと言わんばかりにグッと掴まれた手は魚籠ともせず。そして、近藤さんは一人で何かを考えながら眉を寄せて唸り始めた。

「俺は、オメェが情けねぇ奴とは思えねぇけど?」

「なに…?」

「家、どこだよ」

「…石田村、」

訳も分からずただ咄嗟に答えてしまった俺。
近藤さんは、ふ~ん。と、ただ納得して、

「店からあの距離を一晩歩き続けたってぇのか。なにが根性無しだよ。たいした根性じゃねぇか」

俺には無理だ。と、頷いた

「本当に、叱られただけで出てきたのか?何か相当な理由があったんだろ。そうでもねぇと、こんな細っせぇ足で我慢して歩こうなんざ、考えるかってンだ」

どうやら、それが俺の話を聞いた近藤さんの見解で。
近藤さんは、だから、と続けて、

「お前は、根性無しでも、我慢が出来ねぇ奴でも、情けねぇ奴でもねぇ。テメェで情けねぇと言い聞かせてるだけの奴だな」

やっぱり大口を大きく開けて笑ったこの日会ったばかりの近藤さんが、まるで今まで俺を見てきたように言うのも、それを否定しようにも否定する道理もない俺自身も、悔しくて仕方無く。つくづく捻くれた餓鬼だと思う。そして、解ってもらえたと言う嬉しさと一緒に、目尻が疼くのがどうしようも無くて、

「偉そうに、言うな…」

「偉そうついでに言いたいンだけどよ。オメェも武士に成れるって訳だ」

「…ホントかよ」

「俺が必ずきっと成るから、お前も一緒に成るンだよ」

「それはさっき聞いた」

「お前、名前は?いい加減教えてくれてもいいだろ」

「……歳三」

「じゃあ…、歳だな。俺は勝太だ。俺とお前ェは、今から同志な」

「…分かった。」

一つ頷くと、近藤さんは俺を膝から降ろし。立ち上がって、帰るか。と俺の手を握った。それは暖かい。俺の目が水分で歪み霞んでいたから、転ばないように。ゆっくり歩き出した近藤さんに引かれるがまま着いて行くだけだったのが、不意に近藤さんの足が止まった。

「歳、また明日もあそこに居るだけなら花見するか」

「花見?」

近藤さんが上を向いていて、俺も見上げれば、二人のその頭上には、ポツポツ花を付けた桜の木の枝だが拡がっていた。

「俺ァさ、花の中では桜が一番好きなんだよ。武士の花だからな」

近藤さんはまた口を大きく横に開いて屈託も無く顔を綻ばせた。


誰もが俺を見限っていた中で唯一この男は俺を理解してくれて、武士に成る。とか、同志。とか、そんな大層な希望も関係も、勿論、近藤さんの望だから大切だろうが、ガキでまだ何も知らない俺にとっては、
この時からこの人の、その存在だけでも、充分だと思えた。

 

 


それから京に上京して。本当に武士に成って、直参にまで出世して、戦をして、酸いも甘いも数え切れないほどあって、今となっては俺も我ながらよく突っ走って来た。と思う。全て引っ括めてそれは、俺には近藤さんのその存在が、ずっと隣にあったから。そして幾つも季節が過ぎたが、今また桜が咲こうと言うとき

「…歳?」

「昔を、思い出してたんだ。女と間違えて、アンタが俺に声を掛けて来たとき」

弱く生温い風が時折吹き込む縁側で、あの時より更に、厚みも皺も増えた近藤さんの手は、あの時と同じで暖かく。あの時と同じ様に俺はそれを握ったまま、ふと一つ、笑いが溢れた。

「いつの話だ」

こんな時に。と近藤さんは片笑窪を刻み、苦笑した。

「こんな時だからさ」

俺が笑い返すと、近藤さんは顔を反らして後ろ手に頭を掻く。

こんな時、と言うのは、先の鳥羽伏見で敗戦を強いられて以来、官軍だの賊軍だの上も下の人間も矢鱈と騒がしいが、俺にとっては単なる敵以外の何物でも無い薩長軍が、ここを取囲み直ぐそこで大筒の照準をこちらに合わせ睨みを訊かせているような時だ。

俺達が選ぶ道は2つ。ここから奴等の前に飛び出して、飛んでくる鉄の弾より速く、敵の一人や二人を叩っ斬って死んでやるか。奴等が出してきた要求を、呑むか。近藤さんは、奴等の要求を受け入れ、投降すると言った。当然、俺は止めた。一晩中説得し続けて、お陰で二人とも一睡もしていない。軽く動きが鈍い頭に春先の生温い風が染み込んで来て残酷なほど俺の神経を逆撫でる。そして、いつまで経っても俺の話しに首を立てに振ろうとしない近藤さんもだ。

 

こうして俺達が江戸の外へ出されココに居て、後手に回ざるを得ない状況なのは、城に居る上の奴等の思惑も含まれている。

この国が一つ引っくり返ろうと言うとき、城下で戦をして更に混乱を招く訳にはいかないんだろう。一度、京の御所で開戦した時大規模に市中が燃えた。その二の舞を避けるには敵から目の敵にされている俺達が江戸に居たら都合が悪い。御上の手に取るよう分かるそんな事情にケチ付けたいわけでも無いし、それで体よく追い出された挙げ句のこの状況を今更、嘆くつもりは無い。ただ、それでこの人が敵の手に渡る事は無い、と思うだけだ。

俺が言うと、近藤さんは、今まで尽くしに尽くして来た御上の見放すようなその意向に、腹を立てるでも泣いて嘆くでも無く、ただ新選組は、俺達は、それだけ大きくなった。と拳が入るほどの大口を開けて笑いやがった。身内からも煙たがれるほど無視し得ない存在に俺達は成った。それが純粋に誇りだ。と喜んだ。そしてそう喜ぶ近藤さんは、俺の誇りだ。

「相変わらず、でけぇな。アンタは…」

「は?何が?口か?口の事を言ったのか?」

まさかホントの事は言えない変わりに、バカ言え。と声を出し笑ってやった。すると近藤さんは口を尖らせて一つ鼻を鳴らし、それを言うならテメェはどうなんだよ。と少し挑発的に出て、

「オメェも相変わらず細いよな。昔も、女と間違えた俺が悪かったが。勘違いされるような白くて可愛くて小っせぇのだって悪い」

「うるせぇ、小さいも可愛いも余計だ」

「あぁ、今は可愛いいより格好いいか。その洋服も立派に様になってるしな」

「当然だろ。」

「あぁ、細っせぇのが尚更、際立って見える」

「コレはコレでいーンだ」

どうしたって時代は変わろうとしているらしい。刀を振るうしか能の無い俺達を爪弾きにして。ただ、それで世の中に武士が、この人が、必要無くなったなんて事は断じて無い筈だ。例え身形を替え拳銃を持ったとしても、刀を外す事も無ければ意志まで変える事も無い。

「こんな物アンタも着れば、それなりに見える。馬子にも衣装って言うし」

「お前が言うとただの嫌味にしか聞こえん。最後の一言は余計だ」

苦笑するその暖かい顔に誘われたよう南の方からまた温かい風が流れ込んだ。それが通り過ぎて行った方を見て近藤さんは、

「歳、そろそろ桜が咲く。花見がしたいな」

「アンタ、昔も会って直ぐの時にそう言った」

「そうだったか?まぁ、俺が花見に誘うのは、まず歳だよなぁ」

「花見がしたいなら、いま直ぐって訳にはいかねぇが、俺が戦って必ず勝つから。それから幾らでもさせてやる。だから、行くなよ」

俺は、昨夜からもう何度目か数えられないほど、バカみてぇにただ繰り返し口にしている言葉を向けた。

だが、近藤さんの意志は、固く絶対に揺るがない。一度この人が決めたらそれが曲がる事はけして無いと自分自身が一番よく分かっている。それでも、喉奥から出てくるのはそんな言葉だけで。我のきかかないガキのように強く握る掌を、離したら最後、近藤さんが行っちまいそうで、二度と掴めなくなりそうで怖い。なんて理由で、未だに放す事を俺は出来てない。

「俺ァさ、死ぬなら、桜が咲く時季に死にてぇな」

「縁起でもねぇこと抜かすンじゃねぇ。いま死ぬ気なら、死ぬ気でこれから戦えばいい」

「そう言う意味で言ったんじゃねぇよ。いつか死ぬなら桜の季節に限るってンだ。桜は武士の花だから」

あの頃と同じ事を言う顔は、あの頃より精悍で、声もずっと低いが、
それでも目を細めて綻ぶ様は何一つも変わらない。だから、思った。
ひょっとしたら、この人はあの頃から既に、武士に成ると決めていたと同時に、そんな事まで考えていたのかもしれない。武士が、武士らしく、桜のよう戦場でも切腹でも潔く散って見せる。と言うのは当然の理念で。俺は勿論その願いを受け入れて叶えてやりたいと思う。これまで武士に成るのも一端の大将に成るのも、何もかも俺は願いを聞き入れて付き添い続けながら側から支えてきたように。

この人が俺の一番の理解者だから、俺もこの人の一番の理解者で居てやらなければならないし。居てやりたいとも思った。だから俺は無我夢中でこの人に尽す事でそれを示して。その為に何でもしてきた。

その結果が、こうだ。ここで武士として潔く投降したからと言って切腹などと、武士として奴等が詰腹を切らせる保証など無い。しかし、それより何よりも、この人が武士らしくと望みそれを俺も望んでいるのに、
この期に及んでも尚毅然としているこの人をこうして引き留め続けて、
武士の寛厳を保つのに泥を塗るような真似をしているのが、許された事では無く。許せない事でもある。それでも、どうしても、


「死に花くれぇ、テメェで咲かせて見せるさ」

俺が思い詰めているから近藤さんは曖昧に笑った。


「……歳、」

俺が握り締める反対側の手が俺の肩に乗っかる。ただ乗っかっただけだ。しかし、その手に身が引き裂かれそうな思いがして。自棄に重たく感じて。たった乗せられただけのその震動に胸の奥の方が抉られ穴が開いたようで。その掌の熱さに目頭が焼け尽くされそうなほど痛み。気を抜くと全身の力が今にも抜け落ちていきそうで。何度も俺を救い俺を前へ引っ張り続け、俺が信頼し続けてきたあの頃から何も変わらない筈の俺の唯一のこの掌を俺は始めて嫌で堪らなくて。拒みたくなった。

途端に、喉奥に何か引っ掻けたよう俺は息を詰まらせ、身体がまるで鈍りのように強張り動けず。なのに近藤さんは俺を真っ直ぐ見据えているから俺はただ俯いて、何も聞かないと頚を緩く振った。


「お前ェさえ居れば、戦は出来る」

なに言ってやがる。俺が何の為に戦うと思ってンだ。アンタが居るからじゃねぇか。アンタが居なかったら俺は戦う意味を無くす。アンタは俺の戦う理由だけじゃない、俺が刀を握ったのも、幾度もの死線をそれこそ死に物狂いで生きて潜り抜けられたのも、全てアンタが居るからだ。アンタの為に、生きたいと思った。

「お前ェだけは、戦うのを諦めるな」

ここで諦めるような奴が勝手な事を抜かしてンじゃねぇ。

「俺が居なくても、お前はきっと大丈夫だ」

なんだよそれ。それは単なるアンタの思い込みだ。俺の意思などありゃしねぇ。どうしたって変わる世の中が、武士を、俺達を、必要としてなくても構わない。許されるような行為じゃないと知りながら、武士として、けじめを付けようとしているこの人を無視して、俺がこうして引き留めているのは俺にはこの人が必要で。ただ俺の前にその存在があるだけで俺には充分だからだ。大丈夫なわけあるか。言いたいこと全てが喉の途中で絡まり詰まって抜け出せないまま。情けねぇ自分の嗚咽が嫌でも自分の耳に響く。

「歳、お前が何を言っても、俺ァは行く。例えここで死ぬ事になっても構う事ァねぇ」

俺を覗き見る近藤さんの顔は歪んでとても見えなかった。それでも俺は近藤さんの迷いの無い真っ直ぐな真剣のその眼を知っている。


「俺が居なくなったくれぇで組を潰してくれるなよ。俺は、お前に全て託す」

グッと肩を掴まれた時に再びどこからともなく風が吹き抜けて来た。
そして、それが通り過ぎて行った後に俺は気付いた。

やっぱりこの人はいつものように俺のこと全てを理解した上で言っているらしい。この人が欠けて俺がここから先に生きるのを諦め戦う意味を無くすなと。俺達の意志を、新選組を、手離すな。と言っている。

「アレは俺が武士に成った証で、お前がそう思って尽くして来たモノだろ。簡単に棄てるな」

出来るな。と近藤さんは念を押すよう肩を一つ叩いた

「お前が鍛え上げたんだ。アレは易々と折れる代物じゃねぇ。俺があの世で奴等をざまぁみやがれと腹を抱えて笑えるよに、頼む」

まだ僅かに真新しさを残す上着の袖口で俺は強引に目元を拭い。
軽く霞む程度の視界になると、近藤さん自慢のでけぇ口の端が、吊り上がっているのを俺は見た。





それから俺は、あの人が諦めるな。と言ったから、まず何とかして救おうと手を尽くしてみたものの間に合わず。その報いに俺は、散々奴等と色んな所で戦ってやって、気付いたら遠く北国に居て、一冬を越し。今また、



「そろそろ、桜が咲く」

 

願わくば、桜の頃に
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